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価値の無い私が価値の無いあなたに送りたい話

私はずっと、自分に価値があるとするならスマートフォンみたいなものだと思っていた。無くても何かで代用できるけど、あったらあったで便利だから使っておこう。みたいな。私はずっと、言葉が通じるやたら便利な道具だったのだ。そう気付いてしまった時、私はどうやって他人と関われば良いのか分からなくなってしまった。


赤ちゃんでいたい

小さいころ、中学校を卒業するくらいまでは、良かったんだと思う。気がつくとか気がつかないとか以前に、人から褒められることをある程度ちゃんと受け入れられていたし、そうあることが当たり前だと思っていた。傲慢なようだが、ちょっとやそっと褒められても何も感じなかった。それでも、自分が努力して作ったものややったことを、好きな人に褒められた時、私はちゃんと嬉しかった。次も頑張ろう、と、そう思えていた。

自慢でもなんでもなく、私の最大の強みであり最大の欠点は「気付きすぎる」というところにある。物心ついた頃から、勘のいい子だと自分自身に対して思ってきたが、ある程度の善悪の判断ができるようになるとそれは確信に変わった。自分に対して相手がどんな印象を抱いてるかとか、他人同士の人間関係とか、そういうのが透けて見える鋭さは、少し前までは便利だと思っていたけれど、「知らぬが仏」、鈍いほうが幸せなこともこの世にはたくさんある。知りたくなかったこと、気が付きたくなかったことに気付いてしまうからこそ、他人と深く関わることができなくなって、誰のこともまともに信頼してこなかった。いや、信頼していた人もいるはずだけれど、孤独でいることで常に傷付くことから逃げるためのバリアを張っていたように思う。

本当は赤ちゃんでいたいの。
難しいことは考えず、嫌なことがあったら泣き、嬉しいことがあったら笑い、本能のままに生きる。感情の波のままに生きたい。その結果その波に飲まれて死ねるのなら、それが私の本望だ。でも人生の濃度は私の意思に反して毎日濃度を上げていく。良い人生を送っている。良い出会いもたくさんある。それでもやっぱり、そんなものすべて投げ打ってしまいたいと思う日がたびたび訪れる。


私がつくることばが私をつくる不思議

ここ2ヶ月くらい急に、noteを褒められることが増えた。昔から、「好き」よりも先に「できる」ことの部類に"書くこと"があって、ことばは私の最大の武器であり戦友のようなものだった。そんな私のことばに価値を見出してくれる人がいる。昔から、人と違うことがアイデンティティだった私にとって、表面的でない褒め言葉は、少し心がムズムズする。本質を、私の中身を見られることが、本当はとても怖くて、だからバリアを張ってきたはずなのに、ことばに書き出してみることで私のバリアが少しずつ剥がれていくのを感じる。人生は不思議でできている。ことばにできない気持ちも全部、ことばの裏にのり付けして、私はここにいろいろなものを置いていきたい。

私は私のことばによって、構築されていく。


「何を考えてるか分からない」と言われるのにもそろそろ慣れた

リアリストでいるつもりだ。
日常は、幻想や理想では語れない。人間が多すぎるこの世界では、みんなが平等にとか、みんなが幸せにとか、そんなの絶対にできない。何かの犠牲や比較の上で世界は回る。世界というのは漠然とした概念で、個人が指す「世界」なんて、自分の周り360度目につく範囲の話でしかない。苦しむ人を、他人が幸せにはできない。例えそう見えたとしても、それは本質的な解決ではないことが多い。だから人は自立しなきゃいけないし、依存の中に平和はない。

そんなこと分かっているはずなのに、私はnoteに夢のようなことを書いてしまう。みんなが幸せになればいいとか、誰かの痛みに涙を流してしまうとか、私がどうしようもできないことを、どうしようもなく考えて、どうしようもなく感情が溢れてしまう時がある。取り留めもない愛しさが、画面の奥の、見えないどこかの何かに、触れてしまうことがある。他人になんて興味は無いはずなのに、ふとした時に、目に付いた人の手を取り抱きしめたいと、そんな薄っぺらいその場凌ぎの溢れ出す感情に、自分の理性が覆われそうになる時がある。

二面性、なんて言うと厨二病みたいだ。そんな高尚なもんじゃない。私の中の矛盾が、たびたび私の軸をぶらす。そしてそんな極端な二人の私が、周りの人から見たら不思議に見えるんだろう。まあ、私だって不思議だなと思うから、そりゃそうかって感じなんだけれど。そしてそれは、多分特別なことではなくて、誰もが心のどこかで抱いているものなのかもしれない。


私は私でしか物事を考えられないと思っているがそれが本当かどうかは分からない

自分を救えるのは自分しかいない。
それはまぎれもない事実で、朝起きるのも、ご飯を食べるのも、誰かを愛することでさえ、決断するのは自分だ。だけど、自分を救うための手段として、他人の手を借りなければいけない場面は、人生のあらゆる時に訪れる。人は1人では生きていけない、と言うことばは支え合う意味があるというよりも、自分が求める自分を創っていく中で、他人の力がなければそこに達せないことはたくさんある、ということを指しているのではないか。そんな人間のどうしようもない脆さと弱さと醜さに、私はやっぱり惹かれてしまう。

ずっとひとりで生きていきたい、誰も信じられない、私に関わらないで、そう踠いて生きていた頃の私は、「若かった」なんていう陳腐なことばで片付いてしまうのだろうか。若かった、そんな薄っぺらいことばで装飾された、あの頃の「生きていた私」を、私はどうしようもなく愛しく思ってしまう。分からなかった、気付かなかった、迷っていたあの必死さが、大人にはない鮮烈なパワーを生み、その目に映る歪んだ世界とまっすぐな正義で、命を作っていたあの強さが、年を重ねるごとに私の心臓から剥がれ落ちていく。

大人になる、とは、きっとそういうことなんだと思う。痛々しいほどの透明な人間は、自分の手で形を作り、他人によって色を塗られていく。他人からもらった色を混ぜ合わせて創った自分の色に、本質的な自分らしさなんてものがあるのだろうか。私には分からない。分からないけど、そんな自分のことも、そうして必死に生きる人間のことも、わたしはたまらなく愛おしい。


他人のことをどうやって信じたらいいか分からなかった、道具でしかなかったわたしを、無機物に貶していたのは、紛れもなく私自身だった。私はきっと、周りが思うほど強くも優しくもない。気持ちが悪いほど増えてしまった人間のなかの一部、たまたま、私に生まれてきてしまったからには、私は私をちゃんと創ってあげなきゃいけない。このnoteを書いている私は、本当にちゃんと「私」が出来ているだろうか。
なんてね。


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