見出し画像

弱虫

「自分は悪くない」
と思いたい感情は、ダサいようで必要な感情だと思う。おそらくこれは、生存本能の一種。そう思わないと、無理矢理そう思い込まないと、罪悪感で息ができなくなることだってあるだろう。ダサくても生きていたい。ダサくても、自分だけは自分を肯定してあげたい。

かっこよくいるためにダサくあることは、矛盾するようでいて何かを続けるために無くてはならないものなんだと思う。


社会的動物

社会人になってから1年と少しが経ったが、落ち着いたな、とはまだ思えていない。

目まぐるしい日々のなかでまだ自分が何かに貢献できているとは到底思えないし、自分が何かを変えたり生み出したりしたとも思えない。それでも、私は今の職場には自分が必要だとは思えている。人が少ないから、という理由が最も大きいが、それと同じくらい、その組織の人たちの熱量が私に存在意義を与えてくれている。

同じ場所で労働をする人間同士、という関係は、何だかすごく不思議な関係だ。生活をするにはお金が必要で、ほとんどの人が生活をするために仕事をしている。コミュニティを広げたり、知見を広げたりするために仕事をしている人もいるかもしれないが、それはある程度余裕が出てきた先の話に過ぎない。

人生の40年近い毎日の半分以上の時間顔を突き合わせて、仲良くなったり歪みあったり、時には人生のパートナーを見つけたりしている。"お金を稼ぐために集まった人たち"が、そんな社会を構成していることは、もはや当たり前になっているが、それでも時々どうしようもなく不思議に思える。

お金のためだ、と割り切る以上の人間関係の中で、私たちは必死に何かを得ようとしている。


他人の不幸は、

大人と子どもの境目はいくつなんだろう、みたいなことを高校生の時に考えていたが、自分がいわゆる「大人」になってから、さらにそのボーダーが分からなくなった。というか、そんな線引きなんて無いんだと思う。

10歳の大人もいれば、60歳の子どももいる。

結局、依存先が親から他人に変わるだけで、一丁前に大人のふりをしながら生きている子どもで溢れている。そういう人たちが「私は大人です」みたいな顔をしながら、自分より年齢が若い人に自分がいかに正しいかを説く姿は、幼い子どもが自分の描いた絵を褒めて褒めてと親に見せる姿に似ている。

ひとつ厄介なことといえば、経験は人を小賢しくしせてしまうことなのだろう。大人のふりをした子どもは、自分が未熟であることを隠す術をたくさん知っている。

誰かを陥れたり
誰かに責任を押し付けたり
自分は当事者じゃない、と
気付いたことから目を逸らしたり

そういうことが、歳を重ねるごとに上手くなってしまう。きっと私もそうなのだろう。

昔はできなかったことがたくさんできるようになったことで、自分が立派に育ったように思ってしまうが、その裏で確かに失っている何かに気付けなくなってしまうことは、とても怖いし悲しい。

自分が失ってしまったものに気付くのは、自分が何かを失ってしまったという事実を最も知られたくない人たちであることが多い。そうして誰かの失ってしまったものに気付いた人間の多くは、誰かの足りないものをしたり顔で自分の中に閉じ込めるのである。どんなに綺麗なふりをしても、誰かの足りない部分に対する優越感は、いつも心のどこかにひっそりとあぐらをかいている。

私も、きっとそうなのだ。


オトナコドモ

自分だけは違う
自分は大丈夫

他人との比較の中でしか特別になれない人間は、愚かに見えるのだろうか。一見すると見下してしまいそうになる必死さは、人間臭さともいえる。

マイナスな感情に直面するたびに、自分が動物であることを思い知らされる。複雑な思考回路や高い学習能力を持ってしても、単純で不快な感情の根源にある「欲」を抑え込むことは難しい。

皮肉ではなく、なぜみんなそのことに目をつぶって平然と何十年も生きていけるんだろうと心から不思議に思うが、そういう複雑な感情に気付かないふりをすることも大人になるということなのだろうか。そうであれば、私はまだまだ子どもである。自分の幼さに、自分の理想が負けているだけなのだ。

欲があることを自認しながら理想的な何かでありたいと思い続けることは難しい。社会には、いろんな事情で、いろんな過程で、諦めてしまっている人がたくさんいると思う。挫折した経験や否定された経験の程度は、第三者が語って良いものではない。性格が悪い、と言われる人間の背景を、私たちは簡単に知ることはできないし、誰かの何かを否定できるほど他人のことを知ることは、その人を嫌うことの何倍も難しいことだ。


他人

他人から生まれて、他人によって形成される。
そこに血の繋がりがあってもなくても、私と誰かはいつも別個体である。

他人の存在は空気と同じで、不完全な私の体に入り込んでは、まるでそれが最初から存在していたかのように思考を変えていたりする。そうやって誰かが私をコントロールすることは、時に私が私をコントロールするよりも簡単なように感じる。私もまた同じように、誰かの何かをイビツにしてしまっているかもしれない。

人間は恐ろしいほどに弱いのに、自分の身を守る術をしっかり分かっている人はほとんどいない。そうして弱い人間同士が自分の正義を正当化するために誰かを攻撃して、誰かの攻撃はまた誰かに繋がっていく。綺麗事を言うつもりはない。たぶん、仕方がないのだ。そうすることでしか自分が自分でいられなくなってしまうときは、私にもきっとあるだろう。これまでも、これからも。

それでももし、自分じゃない誰かを愛おしいと、大切だと思うのであれば、何かを少しだけ諦める必要があると思う。ダサくても死なないけれど、ダサくない自分を守ろうとするとと誰かを殺すことがある。かっこよくいることを大事にしていたはずの人が、最後に本当の意味でかっこよくいられるのは果たしてどちらなのだろうか。

失うものが無い人間と大切な人がいない人間はイコールでない場合が多い。大切な人がひとりもいない人間こそ、本当に失うものが無い人間だとも言えるが、そんな人間は決して多くないだろう。誰もが無意識の中で、日々に大切な他人を点在させている。

弱さの中で、大切な何かを守りたいと思う時、何かを救うのは少しのダサさなのかもしれない。

ダサくても、弱くても、私は私のやり方で、私を生かしてくれる人間に何かを返していきたいのだ。


基本的に全ての記事を無料公開しております。余裕のある方はレジ横の募金箱に募金をする感覚でサポートいただけますと私がハッピーになります。きっとあなたも。