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定番スタイル、予測不能スタイル

 今クールの連続ドラマは「金田一少年の事件簿」と「明日、私は誰かのカノジョ」しか視聴していないのだが、どちらも面白い。

 「金田一少年の事件簿」の面白さは、その定番性にある、とでも言えばいいのか。つまり、金田一少年が謎のツアーに紛れ込み、人が殺され、その謎をジッちゃんの名にかけて解き明かす、という一連の流れがあり、CM前の「ジッちゃんの名にかけて!」のところで視聴者である我々は最大の快感を感じ、「あ〜おもしれ〜」と思うのである。

 大きな流れとしては今述べた通りだが、もっと細かいところにも小定番があり、以前私はこれを「急展開金田一少年の事件簿」としてmixi日記にまとめたことがある。

「呪い(もしくは怪人の名前)なんて存在しないよオッサン、呪いを騙って〜〜さんと〜〜さんを殺した卑怯な殺人鬼がいるだけだ!」

 という超重要な定番セリフを入れ忘れたのが悔やまれるが、とにかく、視聴しているこちらとしては、次どうなるかが完全に分かっているわけではなくとも、前意識的には、次になにが起こるかをほぼ分かっている。

 この予測したところに綺麗に展開していく快感を、おそらく面白いと知覚しているのではないかと思うのだが、実際どうなのだろうか。心理学者とかの人に聞いてみたいものである。

 というと、あんたも精神科医だろうなにを言ってるんだ、というツッコミが聞こえてきて、確かに、と思って一瞬焦ったのだが、精神科医の仕事に「金田一少年の事件簿」の面白さのカラクリを考えるという項目は冷静に考えればない。

 そんなことを言い出したらnoteを書くという仕事もないだろうというツッコミが再び聞こえてきて、もはや世の中はツッコミだらけだ、しかも自分の心のなかのね、とセリフのような口調でつい言ってしまうのは、たった今までTverというサイトで「明日、私は誰かのカノジョ」を視聴していたからである。

 金田一に比して、「明日、私は誰かのカノジョ」には定番性はなく、そもそも1話完結モノではないため、全話が繋がっており同じ展開は2回生じない。

 それゆえ定番性に伴う快感ではなく、次が予測不能な感覚が面白さとして感じられているように思う。

 予測不能といっても本当に予測不能なわけではない。例えば「ホストにハマった女の子がいきなりペットショップから犬を強奪し、宇宙飛行士の免許を取得して盗んだ犬たちと宇宙旅行に向かうのだが、その途中で部活が廃部になるという知らせが入り、目が覚めると昭和8年の東京で、餅屋として大成功した。」みたいなストーリーは確かに予測不能だが脈絡がなさすぎて誰もついていけないし面白いとも思わないだろう。

 そうではなく、現実にありそうな、リアルで予測不能な感覚、というのがドキドキさせるのだと思う。

 一気に見てしまいがちな人気韓国ドラマなどもこちらに当てはまるものが多く、この快感のほうが中毒になりやすいような気はしていて、一時期は仕事をしていない間はずっとドラマをみている時期などがあった。

 定番の安心感か、リアルな予測不能さか。

 この1行をみているうちに徐々に俯瞰してきて、これは何もかもに応用可能な考えだ、という極端な発想が湧いてきた。

 私に身近な例でいえば、外来ひとつとってもそうかもしれない。

 患者さんが入室すると、まず睡眠はとれているか?食欲は?便通は?と一つ一つの決まった症状をyes or noで順番に聞いていって、その回答や答え方などから話を広げていく、という定番スタイルの診療をするお医者さんがいる。

 一方で、話す内容などは決めず、入ってきたときの表情をみるなり「怖い顔をしていますね」などと声をかけて、それに対する言動からまた次のこちらの言動を決めていく、という予想不能スタイルで診療に臨むお医者さんもいる。

 前者の良さは、定番の型があるので「今日はなにが違うのか?」というのがわかりやすいことだろう。

 金田一でも、いつもは復讐なはずの犯人の動機が「ただむしゃくしゃしたから誰でもよかった」みたいなものだったら、いつもと違いすぎて今回は何かが違う、と認識できる。

 そのように、定番から外れた言動だ、ということで、その日の体調不良を早くキャッチできる可能性があるのかもしれない。

 一方で後者は、毎秒変化に合わせて介入し、その刺激によって起きた反応をヒントにまた介入し、というやり方なので、定番スタイルでやっていると定番性の影に隠れてしまうようなことも遅れなく認識できるというメリットがある。

 デメリットとしては、どのように着地するのかが最後まで分からず、定番にはあるこちらの心の安心感がないことだろう。広義にこれは構造化・定式化の話と繋がっている。

 と、ここまで書いて最初のドラマのくだりは全くいらなかったのではないか、と突如思ったのだが、これも、この文章を後者的な予測不能スタイルで書いているために生じたことである。

 つまり、最初の連想が、次の展開を連れてくるわけであり、これは例えば小説のプロットを書いて間を文章で埋めていくか、それとも頭から出てくるものを繋げて展開させていくか、といった問題とも通じている。

 この文章を読んでもお分かりのように私は何事も予測不能スタイルでやる方を好んでおり、書籍や長い文章を書くときもまず次、次、次、と連想で展開をつなげていって、そこから考え直すことが多いのだが、これは過去のnoteでも書いた通りである。

 いよいよ6月になった。繰り返して恐縮ですが、この夏はカムバの夏である。

 数日以内には情報解禁されるプロダクトもあり、さらに8月の偽者論は本のデザインなども固まりつつあり、かなりいい感じで、私自身は何をしているかといえば、学位になる予定の論文を投稿し、今はデータだけ取って積み残していた大学のリエゾン研究の論文をまとめているところである。

 今年の後半は先ほども出てきたような診療の構造化・定式化に関する論文なども書いていきたいなと考えている。

 と、書いてみて、やっぱりこのnoteはやや定番スタイルあるよな、毎回最後に宣伝しとるやん、と自覚し、どちらかに偏るのではなく、皆うまく使い分けていて、ふつう逆はやらない、というところで逆の手法をもちこむと意外に面白くなったりするのではないかとひらめいた。

 ジッちゃんの名にかけて!

 と書いて締めようとこの文章を書き始めるときは思っていたのだが、予測不能スタイルだとそうもいくまい。結局どこで終わるかはっきりしないまま文章はだらだらと続き、私もだらだらと就褥の準備もしないままに過ごしている。夏の始まりであった。



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