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隠された骨格

 別の原稿に手がかかっていて、noteの更新が止まっていた。

 一向にnoteが更新されないので、私の身に何かあったのではないかと心配した人が四谷警察に問い合わせをしたり、警察犬500匹を動員した大規模捜索を行ったり、永田町周辺でデモ活動などを行っていないか心配したのだが、誰もそんなことをしていないようだった。心配して損をした。

 今書いている原稿は、世に出るかも不明な原稿なのだが、12月1日に取り組み始め、12月20日くらいに書き終わった。だいたい原稿用紙160枚(64000字くらい)で、3日くらい推敲したところで、根本的に書き方を変えたほうが良いものになると思って全部捨てた。

 文章を書いているとしばしばこういうことがある。

 だったら、と端から見れば思うわけである。書き始める前によく考えてそういう風に書けばいいやんけと。

 しかし、文章を書く前にイメージしている世界と、実際に書かれた文章の世界が一致するということはまずない。一般的にないのか、私に限ってないのかは分からないが、文章を書くということは自由連想に似て、書いたという行為によって、あるいは書いたものに引きずられるようにして、次の言葉が出てくる。

 あらかじめこういう内容を書こうとイメージしているときは、論理によって書く内容を決めていることが多い。大まかな骨格をまず考えて、そこに肉付けをするというイメージを持っている人もいるだろう。

 私はどうもこの作業ができない。

 医学書を作るときに目次を作りましょうという話になることがしばしばあるが、これが作れない。作っても書き始めてすぐにその通りにいかなくなってしまう。さらに、最初に決めた論理を繋げて書くと、どこか単純でペラペラな文章になってしまい、紙を食べているような虚しい気持ちになってくる。

 書いた言葉やその文章が、アーカイブのなかの特定の記憶を喚起し、その反射に忠実になって次の文章をまた書いていく。この連続でその人固有の文章というのは作られていくわけだが、いざ、160枚とかになって全体を見渡したとき、今度はその集合体を眺めていて、ああ、自分はこういうことが書きたかったのだな、とぼんやり分かってくるという現象が発生する。

 構造化、ではないけど、今度はその書きたかった「こういうこと」に絞って読み直してみると、いよいよもって「これは違った」「これはもっと膨らませたい」「こういう内容がもっと必要」ということがクリアになってきて、本当に書くべき構造、隠された骨格というのが浮き彫りになってくる。そうなると、推敲するよりは書き直した方がよいという判断になり、全部捨てて最初から書き直すことになるのである。

 つまり意識的に構築した骨格で書かれた文章よりも、一度無意識的に、自由に書いてみて、浮かび上がってくる隠された骨格に沿った方が、自分に固有で、かつ重層性のある文章になるような気がするのである。

 新しい原稿は、1月1日から書き始めて、1月15日に書き終わった。だいたい150枚。隠れていた骨格に今度は自然に沿うので、推敲は必要だけど、今度は全捨てはしなくてよさそうである。

 ちなみに偽者論は、なんと5回も書き直さないと形にならなかったし、そもそも最初は偽者論とまったく無縁のテーマを、まったく違う形式で書いていた。

 しかし、最新の原稿は一番最初に編集者と打ち合わせたことや、それまで捨てた原稿のエッセンスがすべて反映されており、やはり真の骨格を追いながら書き直していくことには意味があるのではないかと思ったのである。

 noteでいま連載しているこのマガジンは、偽者論に関連した内容を書き、それを公開してみることで、さらなる隠れた骨格を追い、内容をよりよいものにしようとする試みに他ならないと考えている。

 さて、先の12月から書いている原稿は事情もあり、公開するかどうかはまだ分からないのだが、これについてもまたお知らせする機会があればと思う。

 ところで、何か面白いことが書いてあるかと思って開いた人が、最後まで真面目な話をしていて絶望したかもしれないが、私は最初から真面目な話をするつもりだったので絶望していない。むしろ希望しかなくて、例えば今日、山田涼介くんと身長が同じだと知って嬉しかった。


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