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詩人(特に俳人)必読書。高濱虚子‐並に周囲の作者達‐(水原秋櫻子著)を読んで

 当然のことだが、歴史に名を残すような大人物にも、弱く、苦悩し、葛藤をした若き時代が、人生の中には必ずある。そのことを小生らは忘れてしまいがちで、大人物は昔から大人物であるかのように錯覚してしまう。

 水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)。虚子と並び立つ俳句界の巨星にも、若く苦悩した日々があった。

 師である高浜虚子への尊敬と次第に顕になる俳句観の相違。志を共にした友との決別。

 全国最大の俳句結社ホトトギスの中心的人物の離反と、馬酔木(あしび)という新興俳句の先駆けとなる結社の創設までを、高浜虚子や、若き日の高野素十、富安風生、加藤楸邨、その他様々な伝説的俳人との親好や友情を交えながら水原秋櫻子自身が綴った青春的記録である。

 伝統的な俳句を好む人も、現代的な俳句を好む人も、俳人ならば読んでおくべき必読書である。

 以下に小生が特に記憶しておきたい文章を記載した。参考にしていただけたらと思う。


・俳句は抒情詩で主観が中心である(P71~72)

 ホトトギスには客観写生という標語があった。元来「写生」という語には、作者の心が含まれているわけで、客観写生というのはおかしな言い方なのであるが、大衆には一応わかりやすい語であるに相違ない。自己を無にしてただ自然を写せ、写し得るものは自然の一小部分であっても、それによって必ず大自然を想像することができる。如実に写せば写すほど、作者も読者も大自然と融合し得るのである、と説かれた。
 はじめから、主観の大切さを初学者に教えるほど危険なことはない。初学者は自然描写を忘れて、浅い主観を露出する。これは困るから、まず客観描写を修練させるという教育法は良いのであるが、ホトトギスに於てはいつまで経っても客観写生の標語だけが掲げられていて、その先の教育はなかった。つまりどこまでも大衆教育であり、凡才教育であって、その中から傑れた作者を出そうという教育ではなかった。(中略)だから俳句は抒情詩であることも知らず、「俳句は抒景詩である」という不思議な定義を下す者さえあった。
 虚子は、無論俳句が抒情詩であり、主観が中心であるべきことを知っている。しかし決してそれを言わぬ。いえば初学者の混乱することが眼に見えているからであろう。

・短歌の調べを俳句に応用する(P95)

(写生句に描かれる事物の選び方に作者の主観はでるから満足すべきという、ホトトギスの考えに即して勉強を続けてきた秋櫻子であったが、すでにその様な表現法は飽和点に達したと感じる。そこで以前学んだ短歌の理論を俳句に応用できないかと考えた)

 空穂(歌人)は常に「歌は調べなり」と言った。歌を朗詠するときの音調も独特のもので、その調べをしみじみと味わいつつ吟じているようであった。「歌は調べなり」という意味は、歌は抒情詩である以上、心を主とすべきものであるが、その心は概念的に述べられるものではなく、調べによって伝えられるべきものであるという意味であった。
私はこの事を思い出し、その調べを成す分子は何であろうかと考えた。まず選ばれた言葉そのものが、作者の心をよく伝える場合と、伝えぬ場合とがある。同じ意味を持つ言葉にも、それぞれ違う陰翳があるから、作者の心と同じ陰翳を持つ言葉を選ぶことが大切である。また、言葉の持つ母音の響きと心の関係も考えなくてはならぬ。さらに大切なことは、選ばれた言葉を配列した時に、その全体を流れるひびきと、心とが一致するかどうかということである。

・空想句よりも野外写生を(P106)

(虚子の句の大半が句会の生まれであることに触れて)

 句会で詠む句はどうしても空想作になりやすい。例えば「椿」という題が出るとすれば、今までに見た椿の花を思い起こし、或は椿を中心とした景を眼前に組み立てて詠むのが普通である。その場合どうしても空想の混入するのはやむを得ないことで、句は生気を失いがちである。ただ句会の席上から見えるものを題材とする場合は例外となるだけである。こういうわけで、虚子の句の多くが句会の産であることに、私は不満を感じていたのであった。

・虚子の言う俳句の存在意味(P172)

(虚子、師である正岡子規が「天下有用の学は僕の知らざるところ」と云ったことを例に挙げ、俳句の存在意味について語る)

 天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります。私たちの花鳥風月を吟詠するほか一向役に立たぬ人間であります。

(中略)

 吾等は天下無用の徒ではあるが、しかし祖先以来伝統的の趣味を受け継いで、花鳥風月に心を寄せてゐます。そうして日本の国家が、有用な学問事業に携わってゐる人々の力によって、世界にいよいよ地歩を占める時が来たならば、日本の文学もそれについて世界の文壇上に頭を挙げに行くに違ひない。さうして日本が一番えらくなる時が来たのならば、他の国の人々は日本独特の文学は何であるかといふことに特に気をつけてくるに違ひない。その時戯曲小説などの群つてゐる後ろの方から、不景気な顔を出して、ここに花鳥諷詠の俳句といふものがあります、と云ふようなことになりはすまいかと、まあ考えてゐる次第であります 。

・ちょこっと解説

・本書の中で歌人の斎藤茂吉が「写生」という概念は実相に即することであり、実相は、客観に限らず、主観も実相の一つであるから、「客観写生」と「客観」を冠する必要はないと指摘した項があったが、まさにその通りで、写生とは結局対象物を自分の目や鼻や耳で認識した事物を、自分なりに解釈した結果が映し出されるものなので、客観もくそもないのである。

・解説において秋尾敏氏が述べていることが、本書における要点であるので記しておく。(P267~268)

 虚子が〈主観〉を不要なものと考えていたとか、秋櫻子が〈客観〉的な写生の技法を排したということはない。虚子は写生の背後に垣間見る〈主観〉を求め、秋櫻子は、その〈主観〉の価値を明確に認めるべきだと主張するだけである。確かに二人の主張に違いはあるが、〈客観〉と〈主観〉の一方だけで俳句は成立するわけではないのである。

(中略)

 俳句が近代文学となるためには、そこに近代的自我と呼びうる表現主体が存在しなければならず、そのためには、事実を普遍的に捉えようとする〈客観〉と、自己の特異性を自覚する〈主観〉とが不可欠なのであった。近代的自我は、科学的・論理的な普遍思考と、封建制に隷属しない主体性とを同時に必要としていたのである。

・正岡子規も新聞日本紙上にて「主観的と客観的の区別皆優劣あるなし」と述べている。このことは肝に銘じて句作をしたい。

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