結局、お前は何がしたいのか?
今日は2月の3連休の中日、仕事をしてたら1日がもう終わろうとしていた。
というか、3連休のうち、最後の日は現場出勤で、もはや3連休ですらない。
結局、世間一般の「3連休」のうち、2日間仕事をすることになったのだ。
「仕事」とか「勉強」とか、それをしてさえいれば、なんとなく自分を正当化できるコンテンツに、僕は生かされている。
なんて惨めなのだろう。
自分が存在していること自体に意味はないと思う。
ただ、自分が自分であることには意味がある。
というか、自分は自分を生きる義務があるのではないか。と思う。
デカルトを崇拝してやまないような、論理主義者でもないので、徒然なるままに、書き殴って眠りにつこうと思います。
「結局、お前はなにがしたいのか?」
うん、わからん。
適当に仕事をして、適当な酒を飲み、適当な女を抱いて寝るような生活を
1年ほど続けている。
仕事は少しずつできるようにはなっていくけれども、酒と女については、排泄と一緒で、上達も愛もなければ、1日後にはすっかり記憶から消えている。
明日もマッチングアプリで会って1年ほど続いている女性が宅に泊まりにくるのだが、高揚感はもうそれほど感じない。
新たに出会う女性とのコミュニケーションも、性行為も、あって悪くはないが、昔ほどの熱量を感じなくなってしまっている。
今の唯一の楽しみは、副業でやっている住宅設計のみで、すべてをそこに注ぎたいのだが、本業のクソ業務に追われる毎日を過ごしている。
でも、なんだかんだこれでいい気もしてきた。
結局、これまでの自分の行動は自分で決めてきた。
それは自信をもって言える。
適当に行う諸々も、すべては自分がそう決断して行なってきたこと。
一番ダサいのは、それを「適当」というワードを使って逃げていることかなあ。
ギリシャ神話の酸っぱい葡萄のように、満額で楽しめなかったことに対する自己の正当化なのかもしれない。
こんなダサさを背負いながら、今日も前を向いて歩いていきたい。
ダサくてもなんでもいい。やりたいこと、その時の自分に従って生きていれば。
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