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【写真について知っているいくつかのこと Vol.12】桜三月、 by KISHI Takeshi

カロワークスのKISHIです。写真やカメラに関する(以下略)
・・・さて、早いもので3月ですね。私にとって3月の3は悲惨の3。

あれは幼稚園の卒園式の日・・・。人生初の”卒業”に異様なハイテンションになっていた私は、式の終わった園内を駆け回り、大好きだった遊具
「折りたたみ型トランポリン(最大2人用)」に飛び乗りました。

たたんで壁に立てかけた状態のトランポリン(スチールパイプ製)に!!

しかしそこは、大人が数人がかりで動かすような巨大な遊具・・・。
簡単には動くことなどありません・・・。

私が《開く》レバーにぶら下がりさえしなければ!!

音を立てバランスを崩し倒れるトランポリン(推定60kg)。
下敷きになる幼児・K君(6さい)。
晴れの日に似つかわしくない、母親の、先生の、悲鳴。

気付くと私は車に乗せられて近くの病院に搬送されていました…。
眼球のすぐ横、右目の瞼を切って数針縫うケガ…。
K君、なぜ、そんなハイテンションになっていたの…?
今でも不思議です。

そんな血塗れの卒園式事件を起こして以来、大人になってもなぜか落ち着かない、心穏やかでない・・・それが私の3月です。

***

今年はありがたいことに、2月~3月はカロワークスのお仕事のほか、個人でも多くのお仕事の機会に恵まれ、出張撮影&画像処理の日々が休みなく続いています。

毎日、数千枚の写真を撮り、数万枚の画像を見ていると、"私"という人間が主体的な意思のもとに写真を撮る・見るというよりも、自身の身体が画像生成のシステムに組み込まれ、動かされているかのような錯覚を覚えます。

撮影に関わる露出決定やフォーカシングなど、現代のカメラでは自動化されている要素も多いですが、カメラを適切な撮影位置に動かしたり(カメラワーク、フレーミング)、照明を調整したり(ライティング)など、物理的に人の手が必要な部分もあり、私はそれを効率良く行うために作動する装置の一部に過ぎないのではないか、もしくは撮影された多数の画像のうち、"人間にとって好ましい画像"を効率良く取捨選択・調整するためのフィルタに過ぎないのではないだろうか、そんな思いも去来します。

しかし、困ったことに(?)そのような装置と人の関わり方も、非常に「写真的」でもあるよなあ、とも思うのです。写真そのものは機械的・化学的・電子的な原理に即して生成されるので、撮影者が何をどう感じ、考えたか、そもそも誰が撮ったかなどの人間的な思い入れと"写真そのもの"は、あまり関係がないのです。(一方で、歴史的・表現的・商業的な分野ではそれらが重要視されることは同じ現象の表裏だと思います。)

何らかの対象や、場所、時間に対して、撮影可能な装置があり、それを扱うことの出来る人間(これも人間である必要は無いのかも知れない)が居れば、写真は生成され得ます。しかし、いずれ、写真や画像にとって"人間"という要素が必要とされなくなる日も来るのでしょうか。

何かと屁理屈をこねる本連載ですが、圧倒的な数の写真の生成に立ち会っている現在の私の生活の中では、その現象自体を対象化して考えることが難しいときもあります。それはエポケー的な態度というよりも、単に処理能力の問題・・・というか少しバテ気味なのです・・・。

とにかく、明日も明後日も、明々後日も、まだまだ写真を撮らせて頂く機会があるので、まずそのシステムの中で少なくとも装置としては充分に機能するように、しっかり身体を動かしていきたいと思います。

私はシャッターを押すだけです。あとはすべてKodakがやってくれるでしょう!!!

***

ところで3月といえば、思い出す曲があります。

それは井上陽水さんの「桜三月散歩道」

「傘がない」「心もよう」「氷の世界」などの名曲と同じ70年代初頭に出されたこの曲、陽水氏のアルバム『氷の世界』に収録されたオリジナルバージョンのほかに、赤塚不二夫の責任編集による雑誌『まんがNo.1』の附録のソノシート(!)に収められた別バージョンがあるのです。ご存知でした??
(ちなみに作詞は赤塚氏のブレーンだった長谷邦夫氏)

両バージョンの違いについて調べていたら、東京大学大学院総合文化研究科・教授の田中純氏がご自身のBlogで指摘されていて、非常に納得してしまいました。

一部を引用させて頂くと・・・

しかし、楽曲としての一体性や完成度の高さとは別に、『まんがNo.1』ヴァージョンにはそれ特有の魅力がある。固有名詞を排除して、平易だが象徴性の高い言葉によってイメージを喚起する陽水の詞の世界に近づけられた『氷の世界』版とは異なり、『まんがNo.1』版にはその完結性を崩す複数の異質な要素のせめぎ合いが感じられるからこそ、陽水の曲としては貴重に思われるのである。
            Blog (Before- & Afterimages) 2018年3月10日

「江戸川の堤」「帝釈天」などのワードで示される固有の場所、「町へ行けば革命だ」と歌われる特定の時代、そしてボーカルとは異なる他者によって差し挟まれる語り…。

個人的にも『まんがNo.1』バージョンでのこれらの要素のせめぎ合いは
”写真”にも通ずるような働きがあるように思えて、とても魅力的に響きます。

機会があれば、ぜひ皆さんにも聞き比べて頂きたい!
社長の連載のパクリのようになってしまった・・・)

いよいよ写真についての連載でなくなってきた感もありますが、
また新年度に生きてお会いしましょう・・・

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