縄文時代を楽しむ 中飯降(なかいぶり)遺跡【和歌山・かつらぎ町】
2024年6月29日、紀州かつらぎ熱中小学校ライター部のみなさんと一緒に、かつらぎ町にある「中飯降(なかいぶり)遺跡」を訪ねました。
「中飯降遺跡」は縄文時代の竪穴大型建物跡で、径は約15m~18m、高さ約12mもの建物が4棟あったと推定されています。
2008年、京奈和自動車道を建設する際の発掘調査で見つかったこれらの遺跡は西日本最大級で、当時は大きなニュースとなり、全国から約700人の人が見学に訪れたそうです。
ありがたいことに今回の取材では、発掘に携わったかつらぎ町教育委員会生涯学習課 副主任文化財専門員の和田大作さんが同行してくださり、縄文時代の人々の生活や文化など遺跡から推察できるさまざまなことを教えていただきました。
また、FRP樹脂で精巧に型取りされたレプリカの遺跡を実際に歩くことができました。
FRP樹脂での移設とは……
「中飯降遺跡」は全国的にもめずらしい貴重な大型建物跡なのですが、残念なことに1棟は京奈和自動車道の橋脚に位置していたため、そのまま保存することは叶いませんでした。
保存可能な3棟はしっかりと記録保存をした後、砂で養生をして埋め戻し、橋脚下となってしまう1棟は苦肉の策として、FRP樹脂で精巧な型取りをし、それをレプリカとして東側に移設。
和田さんに案内していただいたのは、その移設された大型竪穴建物跡です。
遺跡を歩いてみれば確かに「土」ではないのですが、形そのものは明らかに遺跡で、とても不思議な感じがしました。
このような精巧な復元(遺構剥ぎ取り)は専門の業者さんが請け負っており、中飯降遺跡は京都にある(株)スタジオ三十三の施工だそうです。
中飯降の地の利
中飯降は紀ノ川の北岸にあたり、南向きで日当たりの良い河岸段丘(平らな広い地形)が広がっています。川のそばの小高い土地のため、人がとても生活しやすい場所でした。
平城京から出土した木簡にも「指理郷(ゆびりごう)」として記され、白米を5斗献上したとの記録が残っています。
古い時代から大きな集落として栄えていた可能性が高いそうです。
大型竪穴建物の造り
縄文時代の竪穴建物は、一般的に径4mほどのものが多いそうです。
ところが中飯降遺跡では、径15mから18mほどの大型建物が4棟も発見されています。
主柱穴の直径は約2m、太さ30~40㎝もの柱をしっかりと石で根固めしており、5本の主柱が高さ12mの屋根を支えていたと推察されています。
(京奈和自動車道の高架下から見上げると、ちょうど上を走る道路くらいの高さです)
和田さんに案内していただき、実際に大型竪穴建物跡に足を踏み入れると、中央付近には床土を浅く掘りこんだ炉「地床炉」があり、建物内部には「埋設土器」が5つ。
「埋設土器」には遺骨が入っていることが多く、いわゆる「お墓」のようなもので、それが生活の場に置かれていたのです。
縄文時代には「生」と「死」の分け隔てがなく、一連の循環するものとして捉えられていたのではないか、と考えられているそうです。
当時はまだまだ人口は少なく、3棟ほどの小さな竪穴住居があれば立派な「集落」だったとのこと。ほとんどが狭い広場を囲むように建ち、その広場には石柱を建てたり、お墓を設けたりしていたそうです。
そのことから、お墓は集落に住む人たちの一体感を高める役割も果たしていたのではないか、ということでした。
ちなみに弥生時代には離れた場所に墓地が作られるようになり、生者と死者の間には一定の距離が生まれたそうです。
大型竪穴建物は何に使われていた?
大きな柱に支えられた広い空間、中央に炉があり、屋内から埋設土器が見つかった中飯降遺跡の大型竪穴建物。この遺跡からは九州地方・中国地方・四国地方・関東地方など日本各地の特徴ある土器も出土しています。
縄文時代には、主に海路を使って地方から地方への人の行き来がおこなわれていたことがわかっており、例えば北陸産の蛇紋岩がリレーをするように西日本まで渡ってきたことが確認されています。
ただ、中飯降遺跡で見つかった関東地方の土器は、実際にその技術を持った者がその場で製作したのではないかと思わせるかたちをしているのだとか。まだ推察の域を出ないのですが、この大型竪穴建物は他の地域から来訪した人々が集まる、交流の場として使われていた可能性もあるそうです。
謎の多い縄文時代
東日本に比べて西日本には縄文時代の遺跡がかなり少ないそうです。
もともとの人口が少なかったのか、発掘がそれほど進んでいないのか、平安京など都の造営のため壊されてしまったものが多いのか……理由は明らかではありませんが、いずれにしても出土そのものの数が少ないとのこと。
また、西日本の土は酸性のため、埋設土器の中のものは溶けていて、実際に何が入っていたのか特定するのも難しいそうです。
建物の中では土の上にゴザのようなものを敷いて暮らしていたのではないかと考えられていますが、それも残ってはいません。
そんなことから、中飯降遺跡での縄文時代の人々の生活については、他の地域で発見されたわずかな痕跡を元にして想像力を働かせることとなります。
「きちんとわかる」ことも大切ですが、縄文人の気持ちに寄り添って「推察する」、それもまた遺跡の楽しみ方のひとつなのだと感じました。
縄文人が身近に
土曜日で町役場での仕事はお休みにも関わらず、朝10時からお昼すぎまで、約2時間に渡って和田さんは中飯降遺跡についてたくさんのことを教えてくださいました。
説明の流れから外れ、私たちは思いつくままいろいろと質問をしてしまったのですが、一つ一つ、とても丁寧に答えてくださったのもありがたかったです。
取材が終わるころには、ここで実際に暮らしていたひとたちのこと……大きな柱を一体どのようにして切り出したのか、埋設土器にはどんな気持ちが込められていたのか……等々、時を越えて同じ人間として縄文人のことを思っている私たちがいました。
和田さんのご案内のおかげで、しばし時間旅行をしたような気持ちです。
中飯降遺跡では2024年12月、FRP樹脂遺跡の内部構造見学会がおこなわれるとのこと。
普段は鍵がかかっていて立ち入りができないため(京奈和自動車道の橋脚の安全確保のための由)、ご興味を持たれた方はぜひこの機会に参加して、中飯降遺跡を知っていただければと思います。
和田大作さん、縄文時代への旅のご指南、どうもありがとうございました。
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