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信念を存在させられる職場か潰される職場か

最近残りの社会人人生についてよく考える。

もちろん社会人人生は人生の一部なので『これからの人生とは』という視点から考えていった方がよいのであろうが「明日死んでもいいや」と思っているので、”人生”という視点で未来を思い描くと真っ白なキャンバスが真っ白なまま一向に進まない。

だから、方法を変えて目先の”これからの社会人生活”のところから考えてみることにした。

いや、違うな、、、

ここを考えようとした発端は、今の職場に対して疑問があるからだ。
毎日毎日自分の行動に違和感を感じながらモヤモヤしながら仕事をしているからだ。
要するに、私は悩んでいる状態なのであろう。


人にはそれぞれ信念がある。
それは仕事をしている時であれプライベートの時であれ、変わらずに自分の奥底にある、自分を自分たらしめるものであると思っている。

それを実践できないどころか、否定され続ける職場。仕事の内容が原因ではなく、上司や同僚の考え方が優位に立ち、自分の信念が潰される。

どっちが正しいとは言わない。それぞれの正義があるだろうから。

だから余計に、先方の正義(信念)ばかりが採用され、自分の正義(信念)が存在できないところにこのまま居ていいのか、というところを考えてしまう。悩んでしまう。

この正義とは、自分の奥底にある自分を自分たらしめる信念である。だから、信念を否定される、潰されるということは、自分の人間性を否定され続けているということになる。

仕事はお給料をもらうため『お給料は我慢料』。我慢した分の対価としてのお給料で仕事以外の楽しみを充実させればいいや、と思ってここまでやってきた。
自分の信念とは真逆にある「適当に仕事する」「見て見ぬふりをする」「薄っぺらく仕事する」「早目に諦める」を一生懸命心がけて日々この職場にいるが、、、

ふと思った。
「なんか、私、”わたし”に我慢させてるな、大事にしてあげてないな」

自分の中に、”わたし"という元となる存在があって、その”わたし”に指示を出して動かしているのが”私”という感覚。

”わたし”の事を考えて、思いやってあげなくてはいけないのは”私”なのに、その唯一無二の”私”が一番“わたし”に冷たくて、酷くて、スパルタだ。

”わたし”が心地良く生きていけるように”私”がもっと考えてあげなくてはいけないのかもしれない。
”わたし”の人権を守ってあげられるのは”私”しかいないのだから。

『隣の芝は青い』の通り、「この人が上司だったら良かったのに」「こんな職場で働けたらよかったのに」とよそは良く見えるもので、実際はどこもここと大差ないであろう、だからここで我慢しよう、と自分に思い聞かせていた。

けれども、世の中には色々な考えを持った色々な人がいて、自分の信念と合う人、合うまでいかなくてもお互いの信念を認め合える人がいる場所だってあるのではないか。

よく考えたら、今までの人生で自分の信念と合う同志は沢山いた。仕事上でもプライベートでも。その人達と何かをやり遂げていた時はとても充実していた。
やっていることの内容や大小や大変さに関係なく、そういった人達と話して、一緒に考えて、向かっている方向が同じであったことが充実していた要因であったと今思う。

”仕事”では無く”職場”。私が価値を置いているところは『人で構成される場所』である”職場”なのであろう。

だから、今のこの環境が世界の全てでは無いし、全て自分が要因でこうなっているとは思わなくてよいのかもしれない。

”信念”は大事なものである。大事にしたいものでもある。
だから、信念を潰されたまま日々過ごしていくのは違うのかもしれない。
いろいろ我慢したり譲ったりしなくてはいけないこともあるかもしれないけど、40何年生きてきてずっと持ち続けてきた信念を自分でないがしろにすることは、自分のこれまでの人生を否定することになりかねない。

これまでの人生、決して自信満々に胸をはれるものではないし、今の自分を良しとしているわけでもない。
ただ、私がこうやって今生きているのは、これまでの人生があるからで、良かったことも悪かったことも全てが要因となって今がある。

だからこれまでの人生のどれもこれも否定しないで生きていきたい。

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