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常識を押し付ける仕事(ある児童指導員の雑駁)

常識とは多数派の偏見

「そんなの常識だろう。そんなこともわからないのか」と言う人がいる。常識とは、多数派の偏見のことである。だから、その人は「そんなのは多数派の偏見だろう。そんなこともわからないのか」と言っていることになる。

もちろん、その人は、そんなことを言いたいのではない。その人は「なぜ、みんなが知っていることを君は知らないのだ?おかしいのではないか」と責めたいのである。それに対する返答として、「私は多数派ではないので」と言うことができる。しかし、そう言われた人は、首を傾げるだろう。なぜなら、その人は自分が多数派だと自覚していないからである。

常識を押し付ける行為は毛嫌いされる

多数派の偏見でしかないものを個人に押し付ける行為は、現代社会では良くない行為とされている。なによりも個人が尊重される社会だからである。それを蔑ろにして集団の便益を図る行為は毛嫌いされる。そういう価値観が根底にある社会を、人類は目指してきた。

常識を押し付ける仕事

ところが、常識を押し付けることが仕事になる場合がある。その一例として、児童指導員の仕事を紹介しよう。これは、私の現在の職業である。

私は児童指導員として、放課後等デイサービスで働いている。主に、発達障害(注意欠如・多動症、自閉スペクトラム症、限局性学習症)の児童・生徒に対する療育に携わっている。

療育と一口に言っても色々あるのだが、簡単に言えば、脳に器質的な障害がある児童・生徒が、定型発達(いわゆる「普通」)の人達に可能な限り合わせられるよう支援することである。(こういう言い方をすると、同業者から怒られそうだが。)すなわち、多数派の偏見を少数派に押し付けている。それが仕事なのである。

常識を押し付ける行為は悪いこと?

現代社会では、常識を押し付ける行為が毛嫌いされる。すなわち、それが悪いこととして認識されている。では、私のような仕事に従事している人は、社会から悪いことをしている人と思われるのだろうか? おそらく、多くの人はそう思わないだろう。

常識を押し付けられることは、気持ちの良いことではない。しかし、だからといって、それが悪いことにはならない。

例えば、人を殺してはいけないという常識は、押し付けられるべきものである。これが悪いことだろうか?
もし、この常識に対して「なぜ?」と疑問をもつなら、はっきり言って病んでいると思う。

このように、常識を押し付けることが、必ずしも悪いこととは言えない。とはいえ、気持ちの良い行為でもない。このあたりをごちゃ混ぜにしないほうがいいと思う。

常識人を演じて生きる

私のイメージだが、常識を押し付ける行為は、「常識」というアプリを他者にインストールさせる行為である。定型発達の人たちには、日常生活を通してインストールされるが、発達障害の人たちにはそれが難しい。だから、それを支援する人が要る。

ただし、インストールするだけではなく、それを起動して使う必要がある。いつ・どんなときに起動するのか、それを伝えることも支援の一環になる。

適宜起動できるようになったら、社会の動向に合わせてアップデートすればいい。様子を見たいなら、アップデートを先送りにしてもいいだろう。そうして常識を「使う」人になる。すなわち、常識人を演じて生きることになる。このことが、発達障害の人達にとっては「鬼畜難易度」になってしまう。

常識人というのは、常識という道具を使って多数派を自称している人、とも言えるだろう。それは、金槌を使って釘を打ち付ける人が大工を自称するようなものである。

常識は道具である

私は児童指導員として多数派の常識を少数派に押し付けることがある。それは、それによって少数派の人たちが生きやすくなると期待しているからである。しかし、常識を知ったとしても、その使い方がわからないとインストールしただけになってしまい、鬼畜難易度が据え置きになる。

私は道具として常識を使っている。それは、私自身が現代社会を生きやすいタイプではないからだ。だからこそ、多数派の人たちを観察して、多数派としての作法を知ろうとしてきた。それを道具として使えるようになったのは、ここ数年のことである。随分と生きやすくなったが、それは多数派に合わせているからであって、本心は別である。

常識は道具である。それを使っている人の人格は無関係だ。このように考えると、楽になる人もいるかもしれない。

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