何かのせいだったこともあると認める決断とそれから…
自己責任論で溢れる世の中、環境のせいで、周りのせいでって他責化することが憚られる中、この記事を書いている。
誰かのせいにするなんて、環境のせいにするなんて、絶対悪のような圧力を感じる昨今。
だけど、やっぱり、産まれた時から一人ではない以上、どこかの時点までどこかに属して育った以上、周辺環境ってやっぱり大切なんだと自認することにした。
勿論これから、ずーっとそのせいでって考えるだけでは自分が進歩することが困難だ。
でも、本当に自分だけのせいなんだと思い込んでいるより、先に進めることも多くあるのではないかと思うようになった。
もうすぐ私も40歳になる。
長年、自責思考で生きてきた。
失敗したら、どれだけ自分が悪かったのか、どんな風に自分が悪かったのか…
いつもそんなことばかり考える癖がついて、ただ悪いことに目を向けて落ち込むことも多かった。
なかなか次にも進めない。
何かのせいにすることはずるいことのように考えていた。
でも、自分だけが悪いってことの方がなかなか少ないんじゃないかって思うようになれてきた。
10:0で善悪を割り切れることばかりではない。
冷静に考えれば、その方が少ないくらいだ。
自分がもっと要領よくやればよかったかもしれないこともある。
誤解を招かない話し方、誤解を解く努力をすれば良かったこともある。
もっと気楽に捉えればよかったこともある。
でも、やっぱり何かのせいであるってこともある。
例えば、親。
親のせいで生きづらいって思うのは、この歳にもなって恥のようだが、やっぱり親なりに正義があったとしても抑圧された人格形成をされてきたことを今更ながら、とりあえず認めようと思っている。
やっぱり私のせいだけじゃない!って思うことで本来の対処法をやっと模索できる。
私は今でもたくさん親に感謝もしている。
かつては尊敬していた。
だが、今は尊敬はしていない。
これでいい。
交通事故、これに関しては10:0で私は悪くない。
でも、後遺症はある。
やられ損である。
性被害、当時は私が悪いと周りが言ったが、そんなわけあるか!と考える訓練をしている。
そもそも、性被害で周りから自分のせいだと言われたことは、私の認知の歪み、自責思考の根源の一つだと思える。
初めは、まだ幼少期、児童期だった。
助けて欲しいという願いは無視されるという経験も自分の中では大きかった。
困難をどう解決するかも自分で考えるしかないと思ってしまった。
私が、より生きやすくなるには、やっぱり、自分だけが悪くなかったことをきちんと仕分けしながら進もうと思う。
自分に非はなくて何かのせいだってことは現実にある。
それを言い訳にしたって全然いいじゃないか。
関係のない誰かを傷つける理由にしなければ、それも大切な自分の気持ちだ。
ただ、その先に進むための作業として、落とし込む。
発展のために、きちんと何かのせいだったと考えるなら、全然悪いことではないと、今の私は思う。
やっとそんな考えも持てるようになったアラフォーのカウンセリングの成果。
5回目、6回目のカウンセリングの詳細はいつか記事にできたら…と思っている。
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