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真面目といい加減

私は、よく「真面目な人」というような
言葉を言われます。
それは、それで悪い気はしないのですが・・・。

真面目と言っても
「自分が正しい」ことに
「猪突猛進」なだけだと思っています。

最近、この「真面目」な自分像に
疑問を感じます。

例えば、夜に読書をしていると
止まらない自分がいます。
本から正しいことを頭に抜き出すまでは
読むことをやめられないのです。
ある意味、読書中毒であるとも思います。

多分、「真面目」だから
最後まで読みたい気分になってしまうと
捉えられますが実は
「完璧主義」で「粘着気質」
「諦めが悪い」などなど
あまりよろしくない気質が
浮かんでくるのも事実です。

何事も「ほどほど」なのが一番ベターなのは
わかっているのです。
「わかっているけどやめられない」
これが本当の「真面目」でしょうか?

「真面目」の反面に
「いい加減」という言葉もあります。
「いい加減」な人は信用できない。や
「いい加減」な人はだらしない。など
あまり良い表現では使われない「いい加減」という言葉です。

しかし、本来の意味は
「良い加減」をいう意味です。
具体的に言えば
お風呂の温度が「良い加減」
調味料の量が「良い加減」
相手に返すボールが「良い加減」などなど
スパン(間の距離)がちょうど良いという意味になります。

哲学者アリストテレスは
古代ギリシアの四元徳(知恵、勇気、節制、正義)について面白いことを言っています。

例えば、「勇気」について。
勇気がない様子を「臆病」とします。
逆に勇気がありすぎる場合を「蛮勇(ばんゆう)」とします。
その程よい「良い加減」のところを
本物の「勇気」と言ったのです。
これを「中庸」と言います。


同じ時代に東の思想家「孔子」も
同じように
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と
言っています。
孔子は「中庸の徳、それ至れるかな」
(中庸の徳以上の素晴らしいものはない)
とも言っています。

紀元前2000年以上前に
すでに世界の西と東で同じようなことが
言われていたのです。

この世界は何事もバランスだと思います。
日本人は特に「偏差値」など
周囲のバランスから自分を
比べる習慣が根付いていると感じます。

このようなことを述べていると
今、そんなに「真面目」に物事を
捉え考えることも無い自分にも
気づいてしまいます。

趣味も仕事も私生活も
何事も「良い加減」「中庸」が
程よいことに気づきます。

私はそこから一歩進んで
だからこそ「学習」が必要だと感じるのです。
「学習」と言っても「学校」だけでないものです。
経験でも良いです。
物事を理解することは
「どのくらいで丁度いいのか」の
自分で物差しをみつけることです。

ここまでくると
何事にもステレオタイプでの「真面目」ということの無意味さが理解できます。

人生の道は水も甘いもあります。
その中で人は一生懸命に行きやすさのために
試行錯誤を繰り返します。
それで出てきた言葉が「良い加減」「いい加減」だと思うのです。

だからと言って「真面目」を
全てダメだとは言いません。
この文章を打っている私も
「真面目」に書いています。

あくまでも
生活の知恵として
「いい加減」を生活に
取り入れたいものです。

寒い日になりそうです。
暖かくしてお過ごしください。

今回はここまで
では また
おわり


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