機械が動くまでは

※4,500文字を超えます。




ご覧いただきありがとうございます。


かむりりです。




今回は、かむりり(の中の人)の心臓病の経過について、主観的な体験談も織り交ぜながら、整理して残しておこうという記録になります。



かむりりに関心が無くても、


『こういう記事あるといいよね』と感じられたら、


是非スキしてくださると有り難いです。


より多くの方に見て頂き、結果的に必要な方にこの記事が届くことを願っております。



それでは参りますね。






幼少期

病気の発覚は2歳の時でした。


風邪を引いて、当時の家の近所のこどもクリニックに母が連れて行ったそうです。


そこで言われたのが「ちょっと胸の音が変だね。」


それから家から3時間ほど離れた県立の医科大学病院に行き、ついた病名が『特発性拡張型心筋症』でした。


その後3か月ほどその病院に入院しました。

これが2歳〜3歳頃のこと。


保育園はほとんど行けず、それから自宅療養期間を挟んで幼稚園は最後の1年だけ行きました。



小学生の頃

小学校に上がると病気の都合で行けないことはほとんどありませんでした。


医師からも体育の特定の競技(長距離走・潜水など)以外は「無理しなければやってもいいよ」と言われていました。


このアバウトな言い回しが幼い私にはなぜか分かり、「ダメ」と言われ無くても基本セーブしてやる、毎回母に聞く、教師にも相談する、良く出来過ぎていましたね。


小学校高学年にもなると、友達と自転車で遠くに出かけたりグラウンドで遊んだりするようになって行きました。


少しずつ無理の範囲とやれること、やれないこと、本当はやりたいこと、友達の輪など色々なギャップが出始めてきました。


特に運動よりもスポーツが好きで、入りたいクラブ活動がありましたが、どれも無理の範囲でした。


お利口さんだった私は必ず主治医・母・教師に相談していましたが、無理は無理でした。


一番辛かったのが実はこれでした。


病気そのものよりも、病気により好奇心を摘まれることが辛かったです。


皆はやりたいことをとりあえずやってみて、できたりできなかったり、上手くいったりいかなかったりする。


皆が皆プロになる訳じゃないけど、一度は夢見て心躍らせて、仲間と共に時間を過ごす。


それをただ外からみてるだけの私。


挫折する機会すら与えられていない。


このことが一番辛かったですね。



中学校に上がると少しずつこれを拗らせていきます。



中学生の頃

とにかくスポーツをやりたくて仕方ありませんでした。


体育を無理のない範囲でやったり、なんとか主治医に許可を得て部活動に入ったりしました。


私なりの足掻きでした。



体力テストではできない競技は測定不能、できる競技は学年トップクラス。運動部の皆と普通に張り合ってました。

でも長距離走だけは見学。サボってるなんて誰も言わないでいてくれましたが、心苦しさだけがありました。



このことがまた悔しさを一層募らせていきました。



中学2年生の夏休みには服薬調整として、入院しましたが、何事もなく通過しました。


今振り返ると自分の身体能力の最高が中学生でした。




ここから徐々に身体の具合は下降していきます。



高校生の頃

高校でも中学と同じ部活に入りましたが、身体の具合の厳しさが如実に感じられるようになってきました。


1年生の春に念願の県大会出場が叶って、大会終了後に退部しました。


先生には「退部届とか無いから、また気が向いたら遊びにでも来たら」と優しく声をかけてもらいましたが、

部員には病気のことを言えず、「勉強に専念したいから」という理由で辞めたので、エースでもあった自分は合わせる顔がありませんでした。


部活を辞めてからも身体の具合は下降し続け、毎日の登校が本当に厳しかったです。


家から高校までが遠くバス通学でしたが、家からバス停、バス停から学校の徒歩が容易にできませんでした。


それでバスを逃してしまわないように、毎日が戦いでした。


この頃には当時の主治医に、将来心臓ペースメーカーが必要になる可能性を指摘されていました。



大学生の頃

大学に入るとさらに身体の具合は下降し続け、2年生になると鬱状態に陥りました。


それで半年ほど休学〜復学して2回目の2年生。

そして3年生。


この頃にはもう階段を昇ることは疎か、駐車場から教室にカバンを持って歩くことができませんでした。

毎日泣きながら通っていました。



そして大学3年の冬、当時22歳の12月15日に体調悪化〜入院〜12月25日に最初の手術を経験します。


ここでの診断は病名は特発性拡張型心筋症のままで、


病態が『心筋炎に伴う左心室肥大および心不全(完全房室ブロック)』となりました。


この時言われたのが、


おそらく2歳の時点で何らかのウイルスが心臓に入ったんだろうと。


それによって心筋炎を引き起こし、左心室が肥大、場所によっては壁が極端に薄いところや厚いところがあり、弁の閉鎖不全を引き起こし、血液の逆流が見られると。


2歳の頃の当時の先生は心臓の形から特発性拡張型心筋症と診断したのだろうと。(これ自体はそれなりに妥当な判断ではあるらしいです)


そして現在(22歳当時)は心臓の4つの部屋(左心房・右心房・左心室・右心室)の内、下の2つ(左心室・右心室)に信号が自力で送られていない。

上の2つ(左心房・右心房)だけが動いており、

下の2つ(左心室・右心室)は不随意的に痙攣のようなことを勝手にしているだけ。


脈拍は30程度(徐脈)。


入院してペースメーカーを入れましょうと。



ここで始めて心臓ペースメーカーを入れることになりました。



私の場合、若年で将来別の機械(除細動器?)が入る可能性を考慮し、右鎖骨下に埋め込まれました。

通常は心臓に近い左鎖骨下らしいです。

将来別のもっと重要な機械を心臓の近くの左鎖骨下に埋め込めるようにするために空けておくとのことでした。


リードと呼ばれる血管の中を通して心臓に直接電流を流す線は2本入りました。


電池の寿命は10年。


10年後に電池交換の手術。これは確定事項。


ということで最初の10年スタート。



退院後は身体障害者手帳が交付されました。


自分で望んで申請すると交付されます。


等級は1級。


障害名は心臓機能障害(自己身辺生活活動制限)となりました。



日常生活の弊害としては、

胸の筋肉に極端な負荷をかける運動はできない(懸垂・腕立て伏せ等)。

IHクッキングヒーターの前に立てない(実質使用不可)。

携帯電話・スマホは20cm程度離す(通話は実質左耳でのみ可能)。

等々色々ありましたが、私の生活ではこれくらいでした。


社会人

社会人になると障害者雇用でパートタイム勤務となりました。

社長の勧めで障害年金を申請しようとしましたがどこに問い合わせても門前払い。

幼い頃からの病気が悪化して成人後に障害者になったこと、

パートである程度働けていることが主な理由でした。

現在は実家暮らし。

両親の理解を得られて一緒に暮らしていますが、結婚ましてや子どもを考えられる程の余裕はありません。

やりたい仕事を選ぶか、お金と将来を選ぶかで、

現在はやりたい仕事を選んでいます。

現在の生活にはとても満足していますし、これまでの選択に後悔したことはありません。


現在

そして今回。


2024年6月に電池交換の手術をしてきました。


厳密には前回の手術から8年半。電池残量が残り半年の時点での交換なので、電池自体は9年保った計算です。



かむりり(の中の人)現在30歳です。(急な告白)

もうすぐ9月で31になります。(どうでもいいですね)




今回はエコー検査で心臓のポンプ機能に低下が認められたとのことで、電池交換の手術+リードをもう1本付け足す手術もしました。


実は今回知ったのですが、前回までのリード2本状態だと心臓が上下で別々の動きをしていたらしいです。


それでも問題はなかったけど、一番動きの悪い左心室を完全に庇いきれてはいなかった。

そのためポンプ機能の低下が見られ始めた。


今回のもう1本は左心室に直接リードを通し、電流を流し、動きを完全に庇うもの。

結果として心臓の上下の動きを完全に同期させるもの、とのことでした。


術後の現在の体感としては、未だかつて無いくらい身体が楽です。“身体が”を厳密に表現すると“心臓が”になります。


階段も昇れるし、散歩も一日に何度行っても平気です。

呼吸がとても楽で酸素がとにかく足りてる感じ。

足が先について来なくなるくらい、胸は楽です。


術前は全く自覚できていませんでしたが、常に胸の圧迫感と呼吸の苦しさがあったみたいです。今振り返ってようやく気が付きました。慣れは恐ろしいですね。


また食事の面でも身体が欲する物が変わりました。

以前はとにかく水が欲しくて、今考えるとずっと胸の圧迫感があったので気休め程度にスッキリさせたかったのかもしれません。

また塩分の濃い物や味の濃い物を欲していましたが、それも無くなりました。


食事と運動が変わり、すっかり肌質も良くなり、思いがけず身体も軽くなりました。



そしてなんとIHクッキングヒーター使用OK。

(抱きつかなきゃOK。いやしないでしょ。)


スマホもほとんど制限無し。

(ペースメーカーの上に置かなきゃOK。いやわざわざ置かないよ痛いし。)


腕立て伏せ・懸垂は依然としてできません。


手術して約1か月後の現在では、まだ右胸部の動かし辛さ、時折痛み、違和感があります。


これは徐々に無くなります。前回で経験済み。


前回の10年(実質8年半)かかっても無くならなかったのが“凝り”ですね。

右半身の、特に肩・首・背中・腕、ひどい時は足全体にまで。

私の場合は右鎖骨下なので、そこに重りがずっとあるわけです。

大した事ない重さでもずっとあると快適ではないんですね。

どうしても庇ってしまうので凝ってしまいますね。


特に術後から日が浅い現在はひどいです。


ストレッチしたりしてできるだけ負荷を分散させるのが必要になります。


私の場合右利きなので、左手が非利き手にしてはだいぶ優秀になりました。字を書くこと以外はほとんど左手でもできるようになりました。ほとんどの日常生活動作において、まだ右手だけで行うにはちょっと怖さがありますね。



そして今回入った機種はなんとリアルタイムで心臓の状態が主治医に送信されるみたいです。私の自室には送受信機が届きまして、交信してくれています。


何をしてるか大体わかるし、何かあったらすぐに対応できるそうです。


心強くもあり、ちょっと恥ずかしいですね。


医療機器の進歩って凄いですね。



最後に

私が子どもの頃、自分と同じ様な人は周りにはいませんでした。


同じ病気の方の体験談に触れる機会もありませんでした。


でももし同じ病気だとしても状態は様々。


私は解答が欲しいわけでも共感や同情が欲しいわけでもありませんでした。


ただ自分はひとりじゃないと思いたかった。



この記事が本当にただの一症例として、一体験談として、noteという本棚にそっと置かれることを望みます。


誰かが検索したら、必要な方が求めたら、そこにただあることを望みます。



参考にも解答にもならないかもしれませんが、


あなたはひとりじゃないと私は伝えたいです。








以上になります。


最後までお読みいただきありがとうございました。

今後も追記や加筆修正あればしていきますね。

それでは。


かむりり。









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