子どもの成長記録。「ママここにすわって」。私似の長男、夫似の次男。8年放置したデジカメの中身は?
ママここにすわって
『「可愛い盛り」っていつなのか問題』、つまり今が一番可愛い時ね〜との外野からの声にもやっとすると騒がれたりするあれ。
子どもはいつまでも可愛い。
それでもやっぱり、ママにとって子どもが「ママ、ママ」と求めてくれる時期というのは特別ではないだろうか。
子どもの中では、ママに甘えたときの自分、ママじゃなきゃいやだったときの自分なんて記憶の隅にも残らない。
じゃあ、その記憶って誰のもの?と考えたら、ママ(パパ)のものでもいいだろう。かわいかったキミの記憶は私のものだ。
次男坊が積み木やプラレールで遊んでいる時「ママここにすわって」と隣に座るように要求してくると、「待って」と言いたくなる時も多いけどなるべく応じている。8歳の長男はもう「ママここに座って」なんて言ってくれない。
私は自分が自分だと自覚したのは小学3年生くらいだった。母は弟の習い事で平日いなくて鍵っ子になった。夫に聞くと、夫も同じくらいで、1人でバス通学したのがきっかけだと言う。
長男はもう期限間近。
ふたりとも、ママママと甘えた記憶をなんとしてでも記憶してやるぞ。
(息子たちが結婚する時うざい姑にならないようにだけは絶対気を付ける)
私似の長男、夫似の次男
昨日、高畑充希と岡田将生が結婚したとニュースがあった。もしその2人の子が産まれたら!美男美女確定である。血とは恐ろしい。
夫と親族だけのお食事会で結婚式をしたときにお互いの幼い頃の写真をアルバムにまとめて控室に置いた。その時に私の七五三の写真をスマホに入れたのだが…見返すたびに思う。長男の幼い頃と瓜二つ。
次男が生まれた時、長男とは顔が違うと思った。2人は性格もかなり違っている。けど、他人からは「兄弟そっくり!」と良く言われる。
先日撮影してもらった七五三の写真が出来上がり、台紙に印刷されたものをじぃじとばぁばに送り、DVDのデータをパソコンに取り込んで写真共有アプリ「みてね」に入れた。
DVDを仕舞おうとアルバムやDVDを入れた箱に手を伸ばし、ついの昔の写真を久しぶりに見て気がついた。
夫の3歳頃の写真が次男そっくりなのだ。瓜二つ。
私似の長男に夫似の次男。血ってすごい。
なのに、長男と次男の3歳の写真を見比べると2人もよく似てる。どゆこと?!私と夫が似てるの?!
ところで「私の3歳の写真が長男そっくり」と父にLINEしてしまった。
「長男はいい男になるぞ」と父。私が「自分の七五三の写真を見て自分がかわいいと思ったことはなかったが、長男見てると自分もかわいかったのではと思う」と打つと「おまえは最高にかわいかったぞ」と父から返信が。照れて返事が出来なかった。
(私は明らかに私似だ。父、自画自賛?!)
8年放置したデジカメの中身は?
部屋の片付けあるあるで、昔の写真など見出したらもう止まらない。アルバムとともに、「デジカメ」が出てきた。試しに充電したら写真が残っていた。それはなんだったか?!
それは、長男を出産した後に病室で長男を撮影したものだった。
寝ている顔、手、足、頭、泣き顔…私の指も写り込んでいる。かわいくて可愛死してしまう。
最後の1枚は、退院のために着たおしゃれ着とお飾りの帽子姿だった。
それらの写真を撮影したのちデジカメは封印されたらしい。まさに忙殺されたからだ。どうでもいいが、撮影日が年単位で狂っており粘り強い私の機械音痴にがっくりきた。
思い起こせば、長男を出産し家に連れて帰ってから世界が変わってしまったような気持ちになる。
退院して病院の外で吸った空気の味はすごく濃く感じたし、吹いてきた風の肌触りも複雑で、新しい場所に降り立ったかと思ったほどだった。
デジカメに残された赤ちゃんは今の長男とは風貌が異なっている。毛がふさふさとワイルドで手先足先はゴワゴワしている。(今は、もやし系)
いい子だねって頭を撫でて、ほっぺをつついて、抱っこしておっぱいをあげて、匂いをかいで、ふわふわのタオルケットをかけて子守歌を歌ってあげたいと思ってしまう。でももうできない。
ゆりかごの歌やシューベルトやブラームスやモーツァルトの子守歌を1歳頃まで歌って、その後しばらくは、キラキラ星や童謡を歌ってあげた。今後彼に「飴玉」のように渡してあげたい音楽はなんだろう?
長男が「自分」に目覚めて1人の人間へと歩みを着々と進める一方で、8年前のデジカメの封印を解いたために息子愛がまた溢れて暴走しそうだ。行き場を失うこの気持ち。
世間は厳しくて、少子化で、無理ゲーで、子育て辛くても、やっぱり子どもがかわいくてなんか「惚れたら負け」みたいになってて悔しい。