ワーママ限界、もうがんばれない!と思うときに訪れる仕事の神様
7歳の息子に、神様はどんな姿なのかと聞かれた。
無学で恥ずかしい。
どう答えたらよいかわからない。
神様を見たことがないから、姿があるかわからないと答えてしまった。
そう言えば最近、昔の日本人は至る所に神様がいると思っていたから、山や岩や滝や木を祀っていると話したばかり。神様はやっぱり、特定の姿をしていないんではないだろうか?
ところ変われば、また違う見解があるだろう。
ところで、私は何度も「あかん、もう、ワーママ生命は終わった」と危機に陥っているわけだけどなぜかこんにちまで生き延びている。
しかも、歳を重ねるほど、そして、ピンチに晒されまくりガッツも削がれて弱体化していると言うのに、なぜか仕事が自由で楽しい。
もちろん辛いこともあるし無力で悲しいこともたくさんあるけど、平均すると「人生で今一番仕事が楽しい」気がしている。なぜなのだろうか?
それは、キャリアの積み上げ方とか人脈とか過去の選択の数々が貯金となってあるいは複利となって効いているからかもしれない。
あるいは、子どものことで大変すぎてテンパって仕事を続けるだけで息も絶え絶えな時に比べれば平常状態の仕事のありがたみが相対的にアップしたからかもしれない。
それらどれも当たっていそうだが、最近新たな説が浮上している。
それは、仕事の神様の仕業である。
例えばこんなことがある。
忙しいなか、かつての上司が気を利かせて世話を焼いてくれる。
現上司がたまたま、私の仕事に興味を持ちアドバイスをくれる。
斜め上の上司というか、おじさん的存在の人たちがピンポイントで私を思い出してくれる。
そういうとき、何か楽しいことが起こることが多い。たまたま、点と点の仕事が線になり、いずれ面になりそうな予感がしたり。
以前、法律や政府の通達を読む仕事をしていたときは条文が語りかけてくる感覚があった。
昔からあるのは数字の羅列を見ているとデータからメッセージを受け取る感覚がある。
メッセージに沿って検証すると、メッセージがストーリーになる流れが多い。データを見る仕事はあらゆる部署にあって、その場所その場所にデータの成り立ち方や住まい方や反乱の仕方があると思う。
新しい仕事ができるようになるときには、そうした言語的あるいは数値的なメッセージの受け取りやそこからできるストーリーの発信ができるようになっているように思う。
そんな感じで、仕事の神様は「もう、あかん、限界」と思ったとき、蜘蛛の糸を垂れてきて、私は何度もそれに縋っていて気づくと「あれ?また仕事楽しいのか?」とキツネにつままれて生きている気がする。
実は今日も朝、「ああ、もういろいろキツイな」と思っていたのに夕方には「あれ、この続きが早くしたい」みたいな気持ちになり次に「やっぱ、しんどいな、この先どうなるんだろ」と思い最終的に「まぁ、明日はあれとこれして、早く休もう」と、明日もまた仕事する前提の1日の終わり方になる。
どう考えてもおかしい。
こんなおかしなシーソーゲームを一体いつまで続けるのだろうか?
神様の仕業としか思えない。
仕事の神様がいるうちは、家事育児もしつつ仕事をコツコツやっていくのだろう。
かつて家庭と仕事の両立は夫とリソースの奪い合いだった。今は、自分にできる範囲で家庭と仕事の役割を果たし夫とさまざまな悩みをシェアしている。そんな長年同士の夫との巡り合わせもまた仕事の神様の仕業かも?!
これからも、ピンチのときには仕事の神様が助けてくれるだろう、ダメならダメでどうにかなるさと天に任せて日々生きている。
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