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ワーママとよく一緒に聞かれる用語、マミートラックという現象を身をもって体験している気がする。

幼い子の病気や発達の問題や育児家事を一手に担うワンオペなどの現象により仕事どころでなくなり、女性のキャリアが滞ることはよく起こる。

ママになることで、キャリアが進展しないとこは巷ではマミートラックというようだ。

あまり良い意味では語られない気がするが、もちろん、幸せいっぱいで、あるいは感謝に包まれてマミートラックを走っている人もいるだろうし、苦々しいとか、悔しいとか、不服な思いをしている人もたくさんいるだろう。

私は中途社員だし同期がいないゆえ「遅れる」とか「取り残される」という実感があまりなかったうえに、同じ部の同僚もいないのでマミートラックというものをあまり意識せずにきた。

独身でも、男性でも、私より近い年齢で上のポジションのひとも下のポジションの人もいるし働き方は人それぞれだから。人と比べても意味はない、と思い続けてきたと思う。

しかし、広い世界に目を向けていると、きっと私もマミートラックに乗っている気がする。

もし、子どももおらず30代をずっと仕事に全力投球できれば、私は今の仕事はしていないか、より高い職級や年俸を得ていた可能性が高いなと思うからだ。

例えば、産休で抜けなければ。
例えば、育休後あの、転勤を伴うポジションに応募していれば。
例えば、経験が浅いから厳しいと言われそうなポジションでも情熱をもって果敢に挑んでいけば。

思い返すと、子どもたちと夫との生活のために仕事から離脱したり、ブレーキをかけたり、より挑戦的な選択肢を捨て続けていることは事実だろう。

転職して行ったかつての同僚たちとの差に慄くこともちらほらでてきた。大企業からそれぞれの場所に羽ばたいて、大きな翼で大空を飛んでいるように見える。一方私は、小さな鳥籠にいるブンチョウかな?と思う。

もちろん、その時々で納得して選択しているからそうなってきている。例えば、仕事時間を削いでも子どもを学童に週5では預けない、とか、家で宿題や習い事の練習に付き合うなど。今以外の選択肢は考えなかったわけだから言ってみれば「マミートラックに自分で乗った」んだろう。

だって子どもたちは大切だし、家族を犠牲にはできない。何より、私自身の健康だって大切だ。

それに、マミートラックに乗ったと言ってもすごく嫌な仕事をイヤイヤやっている訳でもないし、と、マミートラックを抜けなきゃいけないようないてもいいような気持ちのはざまでぐるぐるする。

もちろん、マミートラックを走るにあたり心配事はある。今、私は仕事に妥協することについて寛容になり過ぎている。より良い仕事を目指して自分を追い込んだりできない。あるとき、このまま行くと私は、何のために仕事してたんだっけ?と思いそうだ。

はたと気がつく。

仮に今もし、すごくやってみたい仕事が目の前にあったとして、今の生活に照らして精神的なり物理的にチャレンジングだったとき。

私は家族に「ママはやりたい仕事があるから、みんな協力して!」と言えるのだろうか?

もし、それができないのなら私は、本格的にマミートラックに乗ってしまったのかもしれない。

トラックから勢いよくはみ出したりしたら、自分も家族も木っ端微塵になるのではないかと恐れている。

抜けたいのか、抜けたくないのか。
子どもが成長したら抜けるのか。
やりたい仕事に出会ったら抜けるのか。

できればマミートラックという言葉自体から逃げてしまいたい。

ダディトラックはないのに、母親だけ、出遅れさせられている気分になる。

そんな、解決にもならないことを考える。
なぜ私はこうした煩わしいことを考えることから免れないのだろうか。
もっと、どんな私でもオッケー!と前を見て生きたいのにと思う。
言葉に囚われすぎないようにしないと。

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