母親の役割なんて、誰かが決めたものはひとまず忘れて、自分で決めちゃえ!と思った話。
理想の母親像に苦しむ女性の話を度々耳にする。
私も、実際に嫌味を言われたり、誰かに何か言われるたびに「母親とはかくあるべし」から外れることに対して罪悪感を感じたり、責任を感じたり、そうした私的な感覚を押し売りしてくる人々に反発したりと忙しかった。
今でもお医者さん、特に女医さんに「お母さん」と話しかけられるとドキッとして胸が苦しい。
ところで、以前上の子のピアノ練習に付き合っていて「ママ、教え方が雑」と言われ一つ言い返した。
「ママは、ピアノの先生ではありません」
そう、それから私は、弾き方や練習の仕方について口出しをやめた。指番号があっていなくても、弾いている場所が違っていても、求められるまで口出ししないことにした。
以前、我が子が苦戦していた箇所を先生が見事に端的にアドバイスして突破できたのを機に、私がムリに先生の代わりをしようとするのはやめようと思ったのだ。
では何をするか。
練習時間の確保、宿題進捗管理、CDなど教材へのアクセス確保、成長したことを褒めるなどモチベーション維持、など、子どもが興味をもって続け自信を持てるようにすること、とした。
よく考えたら、これって普通のことだ。
病気を疑えば小児科や皮膚科や眼科に連れて行くのと同じで、うちでできることはうちでやり、専門家にお願いすることはする、それだけ。
(また別の機会に書けたらと思いますが、小学校の勉強については本人と学校に任せっぱなしとはいかない気がしております…)
学校生活や園生活の支援、歯医者の定期検診や散髪、服のサイズアップ対応みたいなメンテナンス業務に、本人の好きなことをとことんやらせる時間管理、将来への種まきになるような本の選定や新聞記事の読み聞かせ、勉強周りのあれこれ(教材をカレンダーに落とし込む、塾やら検定やら)、心の糧になるような思い出作りや友達関係のためのイベント参加などなど、子どものためにすることはキリがない。
しかも、それら全てが、掃除洗濯炊事など膨大な仕事群の上に乗っているという恐ろしさ。
何でもかんでも「ママがやってあげる」では、立ち行かない…。
そりゃ、できる人も稀にいるかもしれないが、私には逆立ちをしてもムリ…。自転車の練習とか、学校の授業に先んじて区民プールで水泳を教えるといった、他の人もやっていることさえできていない。
そんなままならない私でさえ、いろんなものに頼っている時代。各種先生、アプリやタブレットまで。
そして、私は、それらさまざまなリソースを総合的に管理しバランスを見て、子どもの成長を見守り、励まし、子どもが元気にいきいき過ごす時間が最大化されるよう便宜を図っている。
具体的には学童、学校、保育園、習い事、その他諸々のスケジュール管理や、金銭の管理、宿題の進捗管理など。もはやこれは、マネージャーかなんかですかね?
だから、私は決めた。
母親の役割を自分で。
母親の、というより、私の役割を。
それは、「子どもたちが使えるリソースを確保して、安心安全に成長する環境を整える」こと、だろうか。
安心安全に成長する環境、を掲げるからには、パパと日常的に喧嘩ばかりしない、家族を言葉で攻撃しない、自分の鬱憤を家族で晴らさないことを決めた。それが役割を果たすには必要だし、自分でも大切にしたいことだと思う。
手の込んだ美味しいごはんも、おいしくごはんを食べること、を達成すれば別に自分で素晴らしいごはんを調理できなくてもいい。親が美味しいと唸るお店の料理をみんなでうまいうまいと食べるのも、よいじゃないか。
自分で決めた役割なら果たす気も起きるし、外野に何か言われてもまあまあブレずにいられる気がする。
これからも、子どもたちのためにやるべきと思うことを柔軟に自分で決めていこうと思う。
そう、自分で決めたらいいんじゃないか。
自分の役割なのだから。