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子どももホットクック を使っていいと思えたこと

時代とか、性別とか、色々と理由をつけることは簡単だけど、ただ単純に「料理はできた方がいい」と私は考えている。
その気になれば大人になってからでも十分に身につけることのできるスキルではあるけど、子どものうちに包丁使いや料理の基本を身につけていたら大人になってからが楽だろうなと思う。

まだまだ私が子離れできえいないのが原因で、つい色々と手を焼いてしまうことが多かった。
このままではいけないと思い、少しずつ考えと、それに伴う行動を改めて、子どもたちに家のことを任せるようにしている。
最近、そろそろ料理を任せてみようかと思い始めていたため、今日行動に移すことにした。

夕飯はホワイトシチュー。
人参、玉ねぎ、ジャガイモ、ブロッコリーが買ってある。

私は普段、材料を切って鍋にぶち込んで、ホットクックのスイッチを押して料理終了としている。
家事は楽に、便利な物はどんどん使う、をモットーとしているのだが、どうしたことか、子どもが料理をするとなると、おかしな意識が働き始める。
『ホットクックは料理ができる人が使うべき』
『料理はひとりで始めから最後までの行程をやった方がいい』
『包丁の使い方から学ぶべき』
『味は自分の舌で覚えていく』
昭和的教育による刷り込まれた潜在意識は恐ろしい。
誰かが何かを始めようとすると、または、誰かに何かをしてもらおうとすると、頭が昔に巻き戻って、それを「正」とする。
現在の自分がやっていることは「異」であって、「正」を学び、身についているからこそ「異」の行動が許容されると信じているように感じる。

自分が怖かった。
ホットクックを子どもに使わせないのはもちろん、量が多い材料の皮むきなどの下準備は、子どもがひとりでやった方が包丁がうまくなると思ってしまっていたことが。
そしてすぐに気が付けてよかったと思う。
ホットクックを使ってもいいと思えたのは、切って入れるだけで包丁の練習になるからだし、皮むき、下準備を一緒にやろうと思えたのは、あまりに時間がかかりそうだったからなんだけど、
――そうだ、料理って一緒にやっていいんだ
この当たり前に気がつくまでに遠回りして、危うく戻ってこられずに苦しい料理経験を積ませるところだった。

実際小さいとき以来、久しぶりに一緒に料理をしてみてとても楽しい時間になった。
イライラすることもなく、互いに補いあえていたと思う。
料理は一緒にやることで少しずつ学んでいけばいいし、肩を並べることで得るものはあるはずだ。

記憶を辿ってみると、子どもが小さいときには、あくまで「お手伝い」を求めているから、できることを一緒にやってもらうだけで嬉しかった。
この時の私の視点はお母さんだったと思う。
一方、成長し大人へ近づいたことで、料理とはやらなくてはいけないこと変化し、「家事」を求めてしまった。
視点も主婦に変化し、これを子どもに押しつけようとしていたわけだ。
大人は楽していいけど、経験が浅い子どもはだめだなんて理不尽でしかない。
それにもし、家事を教えようとしていのであれば尚のこと、今の私のやり方をそのまま伝えればよかったのだ。
学び、技術の取得、そこにばかり目が行っていて、がちがちな頭で面白みのない料理をさせようとしていことを深く反省して、楽しい時間を過ごせたことに感謝したい。

夕飯はカレーになった。
うっかりご飯を5合も炊いていることに気がつき、
「クリームシチューにご飯は嫌だ」
と言われたため、最後の行程で投入するルーがカレーに変更された。
こうしたことは我が家では頻繁に起こりがちで、不本意カレーと呼ばれている。

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