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あの淵の底で—— 最終話(全5話)

「伸次君のご遺体は、弊機関が責任を持って捜索しております。調査に携わった者の認識に誤りがあり、対応が遅れてしまった事を心よりお詫び申し上げます」

 逢が頭を下げた。

 あの遺体が伸次じゃないのは、なんとなく分かってた。でも、まだ俺の中の常識が淵の怪奇現象を否定している。

「その話、本当なのか? 淵で泳いだ事もあるけど、何も起こらなかった。なんで伸次だけ……」

「これは仮説ですが、淵が見繕えるのは底に沈んだ物質だけだと思います。奴は底に潜んでいますから」

 つまり、俺は沈まなかったから淵に偽物が作られずに済んだのか……。

「あたし達は、今から病院に向かいます。息子さんの為、それから弟さんの為に、どうか一緒に来ていただけませんか?」

 逃げられないと悟り、俺は頷くしかなかった。

 病室に入ると、四辻は看護師に「うるさくしますが、絶対に戸を開けないでください」と言って、戸を閉めた。

 逢が妻に会釈をすると、妻は会釈を返して部屋を出て行った。どうやら先に話を通していたらしい。

 ベッドの上に横たわる息子は俺を見ると、あいつの顔になって笑い出した。不思議なことに、俺以外には息子が寝ているようにしか見えないそうだ。それがより不気味だった。

「伸一さんはこちらへ」
 四辻はさっきまで妻が座っていた椅子を指差した。

 俺が椅子に座ると、四辻は逢に目配せをし、逢は四辻に掌大の人形を渡した。

 四辻は人形で息子の体を撫でた後、椅子の上に人形を座らせて呪文のような物を口にした。
 その途端、息子は藻掻くように手足をバタつかせ始めた。逢が息子の体を押さえ付けたので、俺もはっとして息子の足を押さえる。

 しばらくして、息子は大人しくなった。
 何度か目を瞬かせ、「ここどこ?」と、首を傾げている。その顔は、俺が知る息子の顔だった。

 息子が戻ってきた!

 抱きしめると、息子は照れたのか俺を引き剥がそうとする。いつもの態度に安心した。

「倒れて病院に運ばれたんだよ。何があったか思い出せるか?」
「全然。でも、たしかベランダに出たら頭が痛くなった気がする」

 いつの間にか、逢は看護師と妻を部屋の中に呼び入れていた。妻は元気になった息子を見て涙を流し、俺と同じように息子を抱きしめた。

 でも、これで終わりじゃない。

「こちらへ」
 四辻は俺を会議室のような部屋に連れて行った。

「霊は体を持たない為、時に体を借りて生きている人とコンタクトを取ろうとします。この街を飛んでいた怪鳥の正体は、鳥の体を借りた伸次君の霊だったんですよ」

 そう言いながら、四辻は俺を椅子に座らせた。

「伸次君が鳥から息子さんに乗り移ったのは、どうしても伸一さんに伝えたい事があったからです。でも所詮は他人の体、思うように動かす事も、話す事もできなかったはず。さらに、伸一さんは彼から逃げてしまった。その為会話はなりたたず、状況は滞っていたのです」

 逢が椅子を俺の前に置くと、四辻は人形を椅子に座らせた。

「息子さんの体が乗っ取られたままでは、心穏やかに話はできないでしょう。そこで、僕は依り代を用意しました」

 四辻は膝をつくと、人形に何かを囁いた。すると人形は膨れ上がり、あの頃の俺と瓜二つの顔の少年に変身した。

「さあどうぞ、伸次君。お兄ちゃんに伝えたい事があるんだよね?」

 伸次と呼ばれた人形は、体の具合を確かめるように手をグーパーさせていたが、四辻に促されて俺を真っすぐに見つめてきた。

 怯える俺を見て、伸次は——

「おいていかないで」

 伸次の口から零れた言葉に、30年前の記憶が呼び起こされた。

 伸次は、俺を慕ってくれていた。いつも俺を追いかけて「一緒にあそぼ」って誘ってくれた。でも俺は、弟と遊ぶよりも友達と遊ぶ方が好きだった。

 あの日、俺は伸次が帰ってくると留守番を押し付けた。

「ダメだよ伸一。カラスが鳴いたら家に帰る約束だよ!」

 自転車で走り出した俺に向かって伸次は叫んでいた。

「行くなら俺も連れてってよ!……待ってよ~!」

 聞こえないふりをして自転車を漕いだ。友達に大きなクワガタが採れたと自慢されたから、俺も罠を仕掛けようと思ったんだ。

 一心不乱に山道を自転車で登った。伸次が俺を追いかけてきていたとも知らずに……。

 山道の途中で勢いよく走ってきた車とすれ違った。その車はカーブのところで何かにぶつかったらしい。大きな音に驚いて振り返ると、車から男が降りてガードレールの下を覗き込んでいるのが見えた。気になった俺は自転車を降りて、男に気付かれないように近づいた。

 しばらく様子を見ていると、男は何かを淵に投げ捨てた。
 それは見覚えのある自転車だった。車にぶつかって歪んだそれが、淵の底に沈んでいく。同時に、傍に浮かんでいたものが目に入る。

 頭から血を流した伸次が、目を開けたまま淵を漂っていた。その目が俺を捉え、僅かに口が動いた気がした。

「伸次いいい!」

 ガードレールに身を乗り出すと、男の冷たい声が聞こえた。

「見たな」

 首に迫る手から逃げて、俺は淵に飛び込んだ。手を伸ばせば届く位置に伸次はいたのに、俺は男から逃げる為に対岸だけを見続けた。

 足がつかないほど深い淵を、溺れかけながら必死に泳いで向こう岸に上がると、男の怒声が聞こえた。

「お前の顔は知ってるぞ! 話したらお前も殺すからな!」

 俺は家に逃げ帰った。今思えば、男の言った事はハッタリだったのだろう。でも俺は怖くて、必死に伸次を探す大人達に本当の事が言えず、ずっと「まだ帰ってない」と言い続けた。

 結局、警察の捜査で夜のうちに男の罪は暴かれた。
 後になって知ったけど、その男は何度も傷害事件を起こしているクズだった。あの時、男は遂に殺人を犯して、逃げようとしている最中だったらしい。猛スピードで車を走らせていたのも、俺を追って来なかったのも、早く遠くに逃げようとしていたからだったとか……。

 男が逮捕されてひき逃げを認めたと聞いた俺は、やっと本当の事を話した。でも大人達は少しも怒らず「よく無事に帰って来てくれた」と泣いていた。

 俺は、それが苦しくてしょうがなかった。生まれて初めて罪悪感を覚えた。淵を漂う伸次の顔が忘れられず、一睡もできなかった。

 明るくなってから、淵に浮いている伸次が発見された。だけど、俺が見たあの頭の傷は綺麗に塞がっていた。

 こんなことがあったから、この事件に関わった大人達はこの話題を避けた。でも、中途半端に聞きかじった人達が面白半分に騒ぎ立て、話はどんどん形を変えて、今に至るまで怪談としてあの地域に伝わっている。

「あの日、俺が山に行かなければ、伸次はまだ生きていたのかな」

 俯きながら呟くと、四辻は何を思ったのかハンカチを渡してきた。

「やっぱり伸次は、俺を恨んでいたんだな」

「それは違います。伸次君をここに呼び寄せ、悪霊に見せているのは、あなた自身の罪悪感です」

 見上げれば、四辻の鋭い視線とぶつかった。

「伸次君が一度でも恨みの言葉を口にしましたか? 伸一さんが彼を強く思ったから、彼はあなたを見つけてここに来たんです。もしかしたら、今度こそ自分の願いを叶えてくれるかもしれない、と期待して」

「それは理由にならないだろ。伸次は息子にあんなことをしたんだぞ!」

 怒りとも、恐れともいえない気持ちが溢れだす。

 そんな時——

「だって、やっと伸一を見つけたんだもん……」
 伸次がポツリと呟いた。俯いたその姿が、ふと、叱られた息子の姿と重なった。

 四辻の顔を見れば、コクリと頷いている。

 あの怪奇現象の全てを——所詮子供のやった事——と割り切れってことか?

 ため息が漏れた。

 でも、そうか……。大人になった俺と違って、伸次は子供の頃のままなのか。俺と遊びたくて、追いかけてきたあの頃のまま……。

「ごめんな」

 一言そう呟くと、伸次は頷いて手を伸ばしてきた。

 ——これは、たしか仲直りの合図だったな。

 小さな手を握ってやると、伸次は笑みを残して消えてしまった。

「何だよ。こんな騒ぎを起こした癖にもう消えるのか? 俺に何をして欲しかったんだよ。俺がお前にしてやれる事は、もう、何も……」

「ありますよ」

 声の方に視線を向けると、逢が微笑んでいる。

「伸次君は、ずっと迎えが来るのを待っていたんです」

 その言葉に「おいていかないで」と言った、伸次の顔を思い出した。

「たった今、調査チームから連絡がありました。伸次君のご遺体を無事に回収したそうです」

「……すぐ迎えに行く。今度は一緒に帰ろうって、伸次に伝えておいてくれ」


 伸次の骨を墓に収めてから、南淵の近くで事故は起こらなくなったらしい。きっと伸次はそこにいるって気付いてほしくて、通りかかる車に悪戯を仕掛けていたのかもしれない。

 息子も今では元気に学校に通っている。妻も調子を取り戻した。

 だけど、あの淵はまだそのままになっている。何であれがそこにあるのか、どうして見繕うのかも、まだ謎のままだ。

 四辻達には忘れろと言われたが、簡単に忘れられるものじゃない。

 時々思う。痛みで体を動かせず、成す術なく水に沈む中、伸次はあの淵の底で——何を見てしまったのか。

 想像する度、淵を泳いだ記憶が甦る。あの時、微かに聞こえた伸次の声が耳から離れない。

「あれがこっちみてる。こわいよ、しんいち……おいていかないで………………」



 ごめんな……伸次……。





 終


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