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照魔機関 第5話 イレイザーの弊害

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10月15日 取調室

 橋爪と向かい合うように四辻は座り、逢は四辻の後ろに控えた。その他、機関の人間が二人、何かを警戒するように橋爪の後ろに立った。

「こんにちは、橋爪さん」
 四辻が微笑むと、橋爪は嫌そうな顔をした。
「またあなたか。たしか、刑事じゃないと言ってませんでした? どうしてここにいるんです?」

「僕の所属する機関には、警察機関と切っても切れない縁があるんです。明治時代、近代化を推し進める政府は学者達の力を借りて、怪異を科学的に駆逐しようとしました。しかし、証明できない現象と、生物のような振舞をする得体の知れない何かが残ってしまった。

 すると今度は、怪異の存在を認め、未知を既知にしようとしました。怪異を分析することで、対処法を生み出そうとしたのです。学者の他、既に怪異と深い関係にあった陰陽師や拝み屋などの職種が招集され、警察機関内に部署が設立されました——それが機関の始まりです。

 つまり当時の政府は、表面上は怪異を否定しながら、裏では怪異の存在を認めて秘密裏に対処しようとしていたんです。その性質は今も変わらず、機関は警察から独立した後も、警察を隠れ蓑に使っています。今でも人は怪異の全てを知る事はできず、対処するのも精一杯なのですよ」

 橋爪の口から乾いた笑いが零れた。

「まるで陰謀論者の狂言だな」
「しかし、事実です。あなたも怪異を目撃したじゃありませんか」

「ああ、化物になった足立は、忘れたくても忘れられるものじゃないな。もしあいつが化けて出てこなければ、と、少し考えてしまうが……」

「遅かれ早かれ、あなたの罪は裁かれていたと思いますよ。社員の皆さんに大足を洗ってもらっている間、僕はあなたと同じ総務経理の川尻さんにお話を伺っていました。

 彼女は——足立さんが小口現金に手を出していた——と思っていたようですが、理由を聞いたら——昨日橋爪部長からそう聞いた——と教えてくれました。
 あなたは、足立さんのご家族から——遺書にそう書いてあったと教えてもらったそうですね。ですが、遺書には全くそんなこと書いてなかったし、足立さんのご家族も当然心当たりなかったはずです。

 あなたは足立さんに罪を着せる為に遺書を作ったものの、殺人の後で動揺していた所為か、うっかり遺書に書こうと思った犯行方法を書き忘れていたんですよ」

 ミスを指摘されると、橋爪は大きな溜息を吐いた。

「それから、捜査当局は他にも別の方法であなたが不正を働いていた痕跡を見つけたようです」
「わざわざそれを言う為に来たのか?」

「いえ、本題はここからです。あとで警察の担当者にも聞かれると思いますが、足立さんをどのように殺害して遺体を処理したのか教えてください」

日暮逢の捜査ノート

 以下は、橋爪さんの供述。
「」は四辻さん。

 昨日の夜、足立に誘われて夕飯を食べた。俺は下戸だから、吞んだのは足立だけだった。

 場所? 俺の家だよ。昔から、スーパーで惣菜や缶ビールなんかを買ってどっちかの家で飲む習慣があったんだ。外じゃ誰に話を聞かれるかわからないからって、足立は変なところで神経質だったんだ。

 大体は金曜日だったから、一昨日誘われた時は驚いたよ。あいつはいつものように酒を飲んで、俺も飯を食って、仕事の愚痴だとか色々話したりしてたんだ。だけど、しばらくして、あいつは俺の不正の話を切り出した。

 金を返せと説得されたけど、できないと言うと、告発すると言われた。……本当は、殺したくなかった。後悔しているよ。あいつの苦しそうな顔が頭から離れないくらいには……。

 冷静になって、恐ろしい事をしたと実感した。救急車を呼ぼうとしたけど、できなかった。今はあいつの家族にも申し訳ないと思ってる。

 足立の遺体を何とかしないと、と思った時、あいつが子供の頃にみとし村に住んでいたって話を思い出した。父親が死んでから母親の実家に移って、もう戻れなくなったけど、あの頃が懐かしいって言ってたんだ。だからせめて、故郷に近い場所に埋めてやろうと思った。

 バレたくないという気持ちもあって、町から近い道を選んだ。麓についてから、足立をどう運ぶか迷ったけど、足立の遺体にシャベルを括りつけて背負って登る事にした。さすがに引き摺るのは可哀想だったからな……。ヘッドライトの明かりだけで不慣れな山道を登るのは大変だったから、少し登ったところで足立を埋めた。

 穴を掘り終わって、埋めようとしたとき、あいつの持っていた鍵の束がポケットから落ちた。その時悪い考えが生まれた。
 あいつの部屋の鍵を外して、証拠を納めたスマホを壊して一緒に埋めた。明け方近く町に戻ってから遺書を作り、あいつの部屋に置いた。……最低な行為だったと思う。本当に後悔している。

「すみませんが、更に詳しく教えていただきたいところがあります。橋爪さんは、本当に足立さんを埋めたんですか?」

 ……そのはずです。

「声に自信がなさそうですが」

 ……土を被せ始めてからの記憶が曖昧で、気付いたら車を運転していたんだ。怖かったから、確認に戻ろうとは思わなかった。服は泥で汚れていたし、帰ってすぐゴミ袋にいれたと思う。思い出したくなかったしな。

「ゴミ袋は先程、あなたの家を調べてくれた捜査員から報告がありました。おびただしい量の血液が付着していたようですよ。車の方も、掃除をされたようですが、ルミノール反応が検出されたようです」

 ……は?

「よく思い出してください。被害者を埋めている最中、何があったのか」

(橋爪さんは目を閉じて腕を組み、思い出そうとする仕草を見せた)

 あ……足立が、俺に話しかけてきた。引き摺ってくれても構わないから、村に連れていってくれって……。石が積み重なっている場所が見えてきて、近づいたら沢山の人に迎えられた。

 その人達は足立を指差して俺に聞きいた——この人は囲の中にいたのかと。
 俺は、違うと言った。でも足立は——こいつはそうなるから帰してやれといった。

そんなことはしたくなかった。でも、仕方なかった。

囲の中にいたから許せなくなったんだ。

血を撒かないといけないんだ。

穢さないといけないんだ。

殺してやるんだ。

全員殺す。

殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころす



(橋爪さんの様子がおかしくなった途端、後ろに控えていた情報部職員が二人がかりで彼を取り押さえ、腕にボールペン型の注射器のような物を突き立て、何かを注入した。イレイザーだろうか?)

(四辻さんに部屋から追いだされた。あたし何かしたのかな……。後で謝らないと。迷惑かけてばかりの自分が嫌になる……)

イレイザーのせいだ。あれが気になる。思い出そうとすると気分が悪くなる。許しちゃいけないと思う。委員会はあたしの研究を潰して珠月様を利用している。思い出せ、あの神を引き剥がす方法。


日暮逢 退出後 取調室にて


「神無捜査官、いくらイレイザーで処理するといっても、あまり機関のことを話されるのはどうかと思います」

 逢を部屋から出した四辻が振り向くと、橋爪を取り押さえたままの情報部の担当者が、困ったような表情を浮かべていた。

 四辻は内心溜息を吐いた。

「あなた方情報部が、機関と機関が取り扱う怪奇現象の秘匿処理を仕事にしているのは分かっています。怪異が今より力を増してしまわないよう、それが必要だということも……。ですが、時に僕は思うんです。秘匿は、人の記憶を消してまで行うことなのかと」

「……当て付けですか?」
「そう思いたければ、どうぞご勝手に」

 橋爪に突き立てられたペン型の注射器を一瞥し、四辻は話を続けた。

「イレイザー、意図的に記憶障害を起こすその薬が、どれだけ人を傷付けるかわかりますか? 怪異という災いから国民を守る為に、人柱にされている人間がいることを理解していますか?」

「神無捜査官は誤解されています。たしかに、初期に製造されたこの薬は、対象の記憶を消す為に広範囲な記憶障害を起こし、さらに副作用で強い頭痛を発生させてしまう粗悪品で、社会復帰も困難になったケースもありました。
 しかし、今は違います。狙う記憶の精度は上がり、副作用も対象の記憶を思い出そうとすると頭に霧がかかるような感覚がある程度です。対象者の負担は軽減したんです」

「この薬は秘匿の為にも使われますが、今彼に使ったように、対象者を守る為にも使えるんです。彼の錯乱は、怪異の意志に触れたことを思い出した為に起こりましたが、次に目を覚ませば正気を取り戻していることでしょう。
 彼は被害者を山に埋め、彼の遺体は悲劇的にも野生動物に食い荒らされてバラバラになってしまった。そのように終わらせた方が、平和に解決できます」

 四辻は溜息を吐いた。何を話しても無駄なのだ。
 これが機関の正しい姿勢だと、頭では理解しているが、受け入れるのは難しかった。

「……申し訳ございませんでした。捜査官の僕が口を出す事じゃありませんでしたね。後のことはお任せします」
 仮面のような微笑を浮かべ、四辻は深く頭を下げると部屋を出た。

 部屋の外では、逢がノートを広げたまま佇んでいた。四辻は同じ作り笑いを浮かべたまま、逢に話しかけた。

「さっきはごめんね。彼が暴れると危ないから、逢さんには先に外に出てもらったんだ。気を悪くしないでね」

 四辻の顔を見上げた逢は、酷く困惑した様子でノートを見せた。


イレイザーのせいだ。あれが気になる。思い出そうとすると気分が悪くなる。許しちゃいけないと思う。委員会はあたしの研究を潰して珠月様を利用している。思い出せ、あの神を引き剥がす方法。


「あたしの字です。だから、たぶん……あたしが書いたんです。でも、何の事なのかわからなくて……。思い出そうとすると頭が痛くなるんです。でも、でも……忘れちゃいけないことだったはずなんです。痛い、いたい、いたぃ。

 ごめんなさい。ごめんなさい。あたしは、あなたを助けたくて……人間に戻したかっただけなのに……。こんな事になってしまって、ごめんなさい……珠月様」

 逢の頬を涙が伝うのを見て、四辻の顔から仮面のような笑みが剥がれ落ちた。やるせない気持ちを隠す術もないまま、彼は逢を抱き寄せ、胸の中で脱力していく彼女からノートを受け取った。

「ごめんね、アイ」

 四辻は、イレイザーに関する記述をペンで塗りつぶした。


 この事件において、自分達がやるべきことは全て終えた。そう判断した四辻は逢に上着を被せて抱きかかえると、車に戻った。運転手は逢を抱きかかえた四辻に怪訝な目を向けたが、特に言及する事もなく車を発進させた。

 後部座席で揺られながら、四辻は視線を隣に向けた。気を失った逢の横顔は、数十年前から変わらず、時が止まったままだ。そして自分自身も、一向に歳を取る気配がない。

 四辻は後悔していた——自分自身の運命に、彼女を巻き込んでしまったことを。

 逢の言葉が頭から離れない。

『あたしは、あなたを助けたくて……人間に戻したかっただけなのに……』
 その言葉は、遠い昔の記憶を呼び起こした。

桑原珠月の記憶


 あの頃の年号は、大正だっただろうか。
 僕は明治時代から続く蚕種業で栄えた桑原家の、三男として生まれた。両親は「まるでお月様のように綺麗な子」だと喜んで、僕に珠月みつきという名前をくれた。
 
 だけど僕の人生は、空に浮かぶ美しい月とは正反対の、這虫のような惨めな物だった。

 僕は生まれつき体が弱く、医者には、成人するまで生きられないと言われていた。
 産声を上げる事もできずに生まれ、心臓は一歳を迎える前に何度も止まった。盲目なうえ、食が細く、自力で床から起き上がる事もできなかった。常に誰かに身の回りの世話をしてもらわないと生きられないから、桑原家に奉公をしてくれていた人達の手を煩わせてばかりだった。

 だけどその代わりなのか、僕の耳は、屋敷に住む誰もが気付かない気配をはっきりと感じ取っていた。僕の傍には常にサンが居て、僕の遊び相手をして、文字の読み書きを教え、遠く離れた場所の事を教えてくれた。

 僕はサンに力を借りて、僕を助けてくれる皆の役に立ちたいと思っていた。でも、七つ歳を取る頃には、誰も知らない事を知り、彼と言葉を交わす僕の事を、屋敷の人間達は気味悪がるようになっていた。
 きっと気が触れてしまったのだと母は嗚咽して、兄達は僕を腫れ物のように扱った。それまで桑原家に尽くしてくれていた人達でさえ、僕を恐れて逃げ出すようになってしまった。そんなことが続いたから、いつしか庭の隅に建つ離れが、僕の居場所になった。

 父はそんな僕を憐れんで、僕の世話をさせる為だけに、同じ年頃の女の子をどこからか連れて来た。

 アイ——と名乗った彼女は、文句の一つも言わず、寂しい離れに寝泊まりして僕が生きる手伝いをしてくれた。申し訳ないと思いながら、僕から逃げない彼女の存在は、心の支えになっていった。

 ある日、彼女が僕を助けてくれる理由がどうしても気になって、思い切って聞いてみた。
 彼女は戸惑いながら――自分には見えないはずの物が見えてしまって、不気味がられてここに売られて来たのだと教えてくれた。満足にごはんが食べられて、雨風が凌げる離れでの生活は、想像したこともないほど幸福だと、涙を流していた。

 見えない物を感じてしまう孤独は、痛い程よく分かった。

 どうにか彼女の助けになれないかと思ったけれど、僕にできるのは、彼女ができるだけ長くここに居られるように、一日でも長く生きることだけだった。それでも、何とか恩を返したくて、僕は彼女に読み書きを教えた。彼女はとても聡明で、ひと月も経てば手助けも要らず本が読めるようになっていた。

 アイとの暮らしは、僕にとっても幸福な日々だった。今まで誰にも相手にされなかった不思議な話を、彼女は受け入れてくれた。でも彼女は、サンを見る事だけはできないようだった。けれど僕を不気味がらず、僕が話すサンの話を静かに聞いてくれた。

 だからだろうか……。いつしか僕は、彼女と未来を生きたいと、叶うはずもない願いを抱き始めていた。

 一年経つと、虚弱な僕と違って、アイは屋敷の人達にも受け入れられるようになっていた。
 離れの外から聞こえてくる楽しそうな声を聞いて、彼女の明るい未来を想像して、安心した。寂しい気持ちはあったけれど、彼女には幸せになってほしかった。

 僕の体は端から腐り始めて、虫がたかるようになっていた。父も母も、兄達も、皆僕を最初からいない子供だと思い込むことにしたらしい。離れには誰も訪ねて来なくなった。
 だけど、アイだけは僕の傍を離れず、屍の匂いを纏う僕に『生きて』と毎日懇願した。僕を抱きかかえて、開く力もない口に粥を流し込んでくれた。

 死にたくない――初めて僕は、神に祈った。

 サンはきっと、その願いを叶えようとしてくれたのかもしれない。

 桑原の家に、医者を名乗るあの男が来たのは、そんな時だった。
 僕を診察した彼は、自分になら僕を治療できると父に話したらしい、すぐに治療が始まった。

 彼の治療は、とても不思議な物だった。薬を一切使わず、代わりに僕の食事を変えた。僕は生まれて初めて、味を知った。旨味で舌が焼けるような、美味しいというあの感覚は、今も忘れられない。今まで茶碗一杯も食べられなかった僕が、一匙をあっと言う間に飲み込んで、どんぶり一杯も平らげてしまったらしい。

 その次の日、僕の体に変化が現れた。たった一度食事を終えただけで、寝たきりだった体には力が溢れ、誰の支えもなく立ち上がれるようになった。

 次の日の夜、僕は彼が持ってきた食事に夢中で齧りついた。食事を一度終える度に、僕の体は力を取り戻した。たった五日で身長はメキメキと伸びて、走り回れるようにさえなっていった。

 ある日、遂に視力を取り戻した僕は、彼が出す食事の正体を知って——嫌悪した。同時に、なぜアイがサンだけを見る事ができなかったのか、理解した。サンが、ずっと僕の中にいたからだったんだ。

 僕は生まれた時から、人の形をしたサンの幼虫で、蛹で、繭だった。

 食事を続ける度、サンが僕の中に溶けていくのを感じた。僕が僕でなくなっていくのに、食べることをやめられなかった。食べるのをやめれば、屍のような暮らしに戻ってしまう——それが恐ろしくて、食事があまりにも甘美で、僕は貪り食っては吐き戻す、そんな惨めな生き物になってしまった。

 そんな苦しみの中で、僕は初めてアイの顔を見た。ふわふわな栗色の髪に、柔らかな榛色の目、温かな笑み、一目見て、すぐに彼女がアイだと分かった。
 涙が止まらなくなった。僕の回復を祝ってくれた彼女に、この事実を知られたくなかった。だから僕は、絶対に夜の間は僕の部屋に入らないように、約束したのに……。

 アイは約束を破った。

 でも、全てを知っても、アイは僕を受け入れてくれた。

 サンが彼女を巫女に選んだのは、彼と一つになった僕が、彼女を必要としてしまったからだ……。

車内にて

 スマホの着信に気付き、四辻は回想を止めた。画面を見れば、情報部の友人からだった。

「よう、神無。一仕事終えたと聞いて連絡してみたが、今大丈夫か?
「……うん。何かあったのかな?」

「その、なんだ……今朝の件、改めて謝っておこうと思ってな。……悪かった。解析も済んで、何がお前の相棒の発作を起こしたのかも分かった」
「君のせいじゃない。でも、何だったの?」

「みとし村事象についての報告、その中にあった囲の経験者と世話をしていた人間の体験談を読んだのが、きっかけになっちまったらしい。……心当たりあるか?」

 四辻は眉間を押さえると、「たぶんね」と素っ気なく答えた。

「とにかく、それだけをブロックすれば、他は見ても平気なはずだ。だが日暮逢への、みとし村事象の情報開示は、少しずつにした方がいいだろうな」

「フィルターが解除されるタイミングの連絡は、僕にくれる?」

「ああ、わかった。……俺が言うのもなんだが、あまり気に病むなよ。イレイザーを無効化する方法はないんだ。相棒の為に、お前はよくやってるよ」

 通話を終了すると、四辻は逢のノートに視線を落とした。
 徐にページを開く——13日が終わり、14日の記録が始まる前の1ページは、持ち主の逢でも気付かなかったほど、綺麗に切り取られている。

 支部への派遣が決まって、連絡が来たのは早朝だった。着替えて四辻の部屋に集合して、みとし村事象の報告書を読んで準備していた。眠いからコーヒーを飲もうと提案したのは四辻で、賛成した逢はミルを部屋に取りに行った。

 異変が起こったのは、そのすぐ後だった。

 激しい頭痛で意識を飛ばした逢がソファに沈み込んだ。四辻には、それがイレイザーによるものだとすぐに分かった。思い出した記憶が鮮明であればあるほど、大規模な記憶障害が起こる。以前は名前すら満足に思い出せなくなったことがあった。

 何に反応して起こったのかは分からないが、みとし村事象の記録が怪しいと思い、情報部に連絡してフィルターをかけさせて調査を依頼した。忘れている可能性は高いが、事象の記録を思い出して連続して発作を起こさせないように、痕跡を消す必要があった。

 逢を彼女の部屋のベッドに移し、彼女のノートから記録を閲覧したという記述をページごとを切り取った。そして彼女の記憶が全て消えていないことを祈りながら、四辻は逢が目を覚ますのを待った。

 そんな昨日の出来事を思い出し、四辻は両手で顔を覆った。

(どうして機関は彼女の記憶を奪った? 何が研究室の事故だ、何が原因不明の記憶障害だ……理解できない。そんなに僕の中の神を手放したくなかったのか?)

 しかし四辻は、逢にイレイザーを使った機関の人間を、心の底から恨む事はできなかった。彼の知るアイと違い、過去に起きた何もかもを忘れた今の逢は、生き生きとして見える。彼女は過去を忘れていた方が幸せになれるのかもしれないと、四辻は悩んでいた。

(思い出してほしいと思うのは、僕のエゴなのか……?)

日暮逢の捜査ノート

 目が覚めると支部のゲストルームに戻っていた。各部署への連絡は、四辻さんが全部やってくれたみたい……。
 ノートの、橋爪さんの取り調べのページが一か所真っ黒に塗りつぶされている。四辻さんに聞いたら、昔書いた買い物か何かのメモをあたしが塗りつぶしたらしい。

足立さんについて

 四辻さんは橋爪さんの証言を元に、機関に足立さんの背景を詳しく調べてもらったようだ。

 彼の証言通り、足立さんは元々みとし村に住んでいたみたい。でも子供の頃に父を亡くしてから、母の実家に移り住んだようだ(彼の弟と母は今もその実家に住んでいる)。

 父方の祖父母は、父が亡くなって間もなく亡くなったそうだ。
 足立さんの父が亡くなってから、みとし村に暮らす祖母は引き籠り気味気味で、祖父は町の友人宅で過ごす事が多かった様子。そのため、祖母が亡くなっても数日は気付かれず、異臭に気付いた近所の人達が腐敗した祖母の遺体を発見したらしい。その後しばらくしてお爺さんも亡くなった——自殺だったようだ……。
 足立さん達と祖父母は、引っ越してからは疎遠になっていたらしい。そりが合わなかったのかもしれない。

 足立さん達は家の相続を放棄し、家は今も空き家のままになっている。

神無四辻のメモ

 イレイザーが使用される直前の橋爪さんの証言が気になり、遺体の写真を見直してみた。
 足立さんの遺体は、やはり目的をもってバラバラにされ、あのように積まれたようだ。橋爪さんに死体損壊をさせた怪異達は、腹部を台座に、頭部をしめ縄が飾られた石に見立てて置くことで神の目を作り、おみとしさまを侮辱したんじゃないだろうか? 
 意図してこれをやったなら、やはりおみとしさまと敵対している怪異が境界内にいることになり、おみとしさまは悪霊を見逃していることになる。この事件は、神の使いに成り済ました悪霊がいるという仮説の証拠になりそうだ。

 さらに、橋爪さんが目撃した悪霊は複数体だったことから、事件に関与したのはトミコさんだけじゃなさそうだ。悪霊と接触した元村人の足立さんの霊は、境界を越えていたと考えられる。彼がおみとしさまに攻撃されなかったのは、彼が悪霊達と同じ性質を持っていたからじゃないだろうか?
 もしかすると、おみとしさまは、村人や元村人の霊を認識できないから、神の使いに成り済まさなくても、攻撃されないんじゃないだろうか?

K支部 ゲストルーム


 ノートを纏め終わると、逢はベッドに横たわり、ぼんやりと四辻が資料を纏めているのを見ていた。
 艶のある灰緑色の髪、透き通るように白い肌、琥珀の目——美しい彼の横顔を眺めていると、不思議と頬が熱くなった。誤魔化すように寝返りを打つと、
「具合はどう?」
なんて心配する声が飛んでくる。

 逢はビクッと体を跳ねさせて、「さ、さっきより良いです」と不自然に素っ気ない返事をしてしまった。

 忘れて一番困っているのは、果たして何に関する記憶だったんだろうか。

 そんな考えが浮かんだ時、
「おみとしさまのことで気になる事ができたから、太田捜査官に連絡してくるね」
 と、四辻はスマホを持って立ち上がった。

 顔面蒼白の支部長、柳田がドアを開けたのは同じタイミングだった。ただ事ではない雰囲気を感じ取った四辻は、落ち着いて話すように彼を宥めた。

「み、みとし村を捜査中だった当支部の捜査官が襲われました。一人は頭部を負傷して病院に搬送され、もう一人は安否不明です。先ほど本部へ連絡をしたので、直に委員会が開かれると思います。私もリモートで参加し、報告をしてきます。遅くても明日には、お二人に捜査権が与えられるかと……」

「え……?」
 ショックのあまり、逢は一瞬、何を言われたのか分からなかった。太田と加藤、捜査にも協力してくれた二人が、事件に巻き込まれたなどと、すぐには受け入れられなかった。

「搬送されたのは太田捜査官と加藤捜査官のどちらですか? 意識はありますか?」
 四辻は落ち着いたトーンで支部長から情報を聞き出していた。その様子を見て、逢も我に返ったようにノートにペンを走らせた。

日暮逢の捜査ノート

 みとし村で天井下がり事象を捜査中だった加藤捜査官と太田捜査官が何者かに襲われた。頭部を負傷した加藤捜査官は意識不明で病院に搬送され、太田捜査官の安否は不明。

 委員会の決定を待って、天井下がり事象の捜査を開始する。