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照魔機関 第4話 六敷商事泥足事象

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六敷商事泥足事象

10月14日 10時45分 六敷商事


「あれ、今日少ないですね」

 聞きなれた声が聞こえ、夏目は作業の手を止めて顔を上げた。思った通り、他部署の手塚が書類の束を持ってデスクの横に立っていた。

「腕木君はトイレに行ってますよ。お腹を壊したみたいだけど、手塚君は大丈夫? 昨日二人で飲みに行ったって聞いたけど」

「俺は平気ですよ、鉄の胃腸を持ってるんで」
 腹をポンと叩いた手塚と腕木は同期であり、部署は違うものの、馬が合うのか休憩時間にもつるんでいるのを、夏目はよく見かけていた。

「というか、違いますよ。用があったのは足立さんだったんですけど、今日お休みですか。渡したい書類があったんですが……」

 手塚が書類をひらひらさせたので、夏目は手を伸ばした。

「預かっておきましょうか」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします。あれ、夏目さん手どうしたんですか?」
「飼い猫に引っかかれました」

 書類を渡すと、手塚は「今日は橋爪さんもいないし、人が少なくて大変ですね」と夏目に労いの声をかけた。

「橋爪部長は午後から出勤されるみたいです」

「足立さんは無断欠勤だけどね」口を開いたのは、夏目の向かいの席に座る川尻だった。「でも、クソ寒いオヤジギャグが聞こえないおかげで、集中して仕事できるので助かってますー」

「あぁ、足立さんって、ちょっと独特な雰囲気ですよね。面白いけど」

「私は好きですけどね、足立さんのオヤジギャグ。場を和ませようとしてくれてるんだなって、そんな感じがします」

「夏目ちゃんは優しいね~。でもあれはね、場を凍り付かせるっていうのよ」
 川尻はそう言うが、本心から足立を嫌っているようではなさそうだと夏目は思った。

「ムードメーカーですよね。じゃ、書類の方よろしくお願いします」

 夏目は頷くと書類をファイルに入れようとして、奇妙なものを見た。書類の端に赤茶色の指紋が一つ付いていた。汚れはまだ新しく、思わずティッシュで拭こうとしたとき、指紋が二つに増えた。触ってもいないのに、三つ、四つと指紋は増え続け、紙全体に広がっていく。

「腕木君、この書類!」

 背中を向けた腕木を呼び止め、もう一度書類に目を落とした時、指紋は嘘のように消えていた。

「何か不備がありました?」

 大急ぎで戻ってきた腕木と、叫ぶような声に驚いた川尻の視線を受けた夏目は、バツが悪そうに俯いた。

「すみません、見間違いでした……」

10月14日 19時20分 六敷商事 喫煙所

「足立さんのこと、何か聞いてないんですか?」

 川尻に話しかけられた橋爪は、一瞬何のことか思案したが、すぐに無断欠勤の事を聞かれたのだと思い立った。

「あいつは適当でふざけているように見えて、いつも誰よりも早く出社して業務の準備をしたりする真面目人間だからな。やっぱり、無断欠勤はおかしいと思うよな……」

「あの後、本当に何も連絡がなかったんですか?」

「実は、出社してからあいつに電話してみたんだよ。でも繋がらないから、さすがに嫌な予感がしてあいつの家族にも電話してみたんだ。……家族も何も知らないようだった」

「部長は足立さんと同期でしたっけ?」
「ん、ああ。そうだけど。どうした?」

「仕事中、心ここにあらずって感じでしたから、心配なんだなって。さっきも、ぼーっとしてたし」

「そんなにか」
 橋爪は苦笑した。
「あいつの心配っていうより、仕事の心配の方が大きいよ。もしあいつがこのまま雲隠れしたら、あいつが抱えてる仕事をどう割り振ったらいいのかってな」

「あー……若い子達は頑張ってくれてますけど、まだちょっと頼りないところもありますしね。仕事を押し付けて潰れちゃうのは怖いし、今は簡単に転職されちゃいますし」

「難しい時代になったな」

 タバコの灰を落とした橋爪は、目の前に人影を見つけた。赤茶色の泥に塗れたその影は、よく知る顔を川尻と橋爪に向けていた。

「足立?」

 橋爪は火の付いたタバコを取り落とした。気を取られて視線を落とすと、橋爪に似た人影は消えていた。

「もう一つ、隠してる事があるんじゃないですか?」

 川尻に追及され、橋爪は溜息を吐いた。

「社長との会話を聞いたのか?」
「偶然社長室のドアの前を通った時、聞こえちゃったんです。本当ですか? ——足立さんが横領してたって」

「みんなにはまだ内緒にしてくれ。特に、夏目さんは足立さんを慕っていたようだから」
 そう言って、橋爪は新しい煙草に火を付けた。
「実はあの後、あいつの家族から電話があった。部屋に遺書が残されていたそうだ、小口現金を使い込んだ責任を取るって。気付けなかった俺の責任だ」

「一人で背負い込まないでくださいよ」
 川尻は深い溜息を吐いて、目頭を揉んだ。

「でも、色々どうすんですか」
「まだ何とも言えない。折を見て、社長が皆に話すと言っていた」

 しばらく川尻と話し合った後、席を立った橋爪は、向かいの椅子に赤茶色の泥が付いているのを見つけた。それはちょうど、足立の幻が座っていた辺りだった。

10月15日 12時5分 六敷商事

 夏目は、ふと隣の席に視線を向けた。置かれていた山積みの書類も、どこの名産かもわからない置物も、捜査の為に彼の荷物は全部運び出されてしまった。この空のデスクには、一昨日まで足立が座っていたというのに。

 彼の仕事ぶりはあまり評価されていなかった。でも夏目は、彼が誰よりも責任を持って仕事をしていたこと、後輩育成に力をいれていたことを知っていた。どこか飄々としていて、つまらない駄洒落を言う愉快な人だから、誤解されることが多かった。その彼が——会社の金を横領して、遺書を残して失踪したかもしれないと、今朝社長から聞かされた。

「どうしてですか……足立さん」

 席を立とうとしたとき、何かが腐ったような悪臭を乗せた風が、オフィス内を吹き抜けた。夏目は咄嗟に鼻を抑え、辺りを見回した。同じように異臭に気付いた数人が困惑したように首を傾げている。

 ミシミシ パキパキ
 オフィス内が異音に包まれた。その時——

 バキバキバキ!!! 

 激しい揺れと共に天井から巨大な影が降ってきた。

 咄嗟にデスクの下に潜り込もうとした夏目は、部屋の中央に現れたそれを見て言葉を失った。それは——赤茶色の泥に覆われた巨大な足だった。真下にいた人は、寸前で我に返り部屋の隅に逃げていく。激しい揺れに転んだ人は、大足がデスクを踏んだ間に、なんとか這い出して踏み潰されるのを寸前で回避した。

 やがて揺れが止まると、部屋の中は小さな悲鳴とざわめきに包まれた。夏目は改めて、部屋の中央に陣取ったそれを観察した。つま先からかかと、ふくらはぎまでが赤茶色の泥に覆われた巨大な足は、天井を突き破って現れたようだった。床に視線を落とせば、足から染み出した泥が広がり出している。

「あれ、映んない」
 スマホのカメラを向ける同僚から、そんな声が上がった。

「写真より警察呼んでよ」
「これ警察で対処してもらえるの?」

「すげっ。これ作り物?」
 好奇心旺盛な同僚が足に近づき、「よせ」とざわめきが起こる。

「電話繋がんないんだけど」
「圏外って、何? どういうこと?」
 電話機とスマホいじっていた、何人かがざわつき始めた。

「とりあえず、全員外に出ましょう」
 ドアノブを捻った橋爪が首を傾げた。
「誰か、手伝ってくれ。ドアが全く動かないんだ!」

 何かに気付いたのか、窓を開けようとした川尻が悲鳴を上げた。窓の外が、土の壁に覆われている。

 呆気に取られていた夏目は、徐々に今起きているこの馬鹿げた事態が悪夢ではなく、現実に起こっているのだと受け入れつつあった。圏外になったスマホを見つめつつ、せり上がる不安感を押し殺そうとしたときだった。

「これ、ドッキリの企画だったりしない?」
 面白半分に大足に触った同僚が、つま先を上げた大足に蹴り飛ばされた。

 一つ悲鳴が上がると、共鳴したように沢山の悲鳴が部屋内を埋め尽くす。パニックを起こして窓やドアを叩く同僚達を、夏目は茫然と見つめていた。その時——

「足を洗え」

 彼女のよく知る声が、轟音のように響き渡った。

10月15日 12時05分 六敷商事 エントランス

「おつかれ、随分酷い顔してんな」
「そりゃそうだろ」
 腕木は溜息を吐くと、ポケットを漁って舌打ちした。

「うわっ財布忘れた」
「ドンマイ。奢ってはやらねーよ」
「手塚……ケチだなお前」

 昼休みは短い。同期を待たせない為に、腕木は大急ぎでオフィスに戻った。部屋のドアを開けて——腕木は目を瞬かせた。

 さっきまで一緒に仕事をしていた同僚達の姿が消えていた。机の上に置かれた書類の山も、受話器が外れた電話も、文書作成中のパソコン画面もそのままの状態で残されている。

 受話器からもしもし、と困惑の声が聞こえ、混乱しつつも腕木は受話器を耳につけた。

「——をぁらえ」

 受話器から怒鳴り声のような不快な音が聞こえ、腕木は咄嗟に受話器を放り出した。受話口から泥が溢れるのを見て、腕木は自分の耳に手を触れた。濡れたような気はしたが、不思議なことに泥は付いていない。

「何だよこれ!」

 半ば叫ぶように受話器から離れた腕木だったが、泥を吐く受話器よりも奇妙なものを部屋の中心に見つけた彼は、悲鳴を上げるよりも先に部屋から走り去った。

 部屋の中央の床から泥が溢れ出していた。それは次第に床を埋め、廊下に向かって流れていった。

捜査開始

10月15日 12時30分 六敷商事前

「すみません、関係者です! ちょっと通してください!」

 野次馬の中を潜り抜け、一人の若い女性が警察官の前に現れた。「ふぅ」と溜息を吐いて栗色の髪を手櫛で直す彼女は、警察官に訝し気な視線を向けられ、動揺したのか榛色の目を揺らした。

「あたしは、照魔機関の——」

 身分証を出そうとしたのか、スーツの内ポケットの中に手を入れた彼女は首を傾げ、ポケットというポケットを漁った。

「リュックのポケット」
 いつの間に現れたのか、背の高い灰緑色の髪の青年が彼女のリュックから身分証を取り出した。

「さっき、『人混みで失くしたらやだ』って、こっちに入れてたよ」
「そうでした! 見つけてくださって、ありがとうございます。四辻さん」

 四辻と呼ばれた青年は微笑むと、警察官に向き直り、二人分の身分証を提示した。

「僕は、照魔機関 未特定怪異特別捜査課所属の捜査官 神無かんな四辻よつじ。こちらの彼女は、同じ課に所属する捜査官、日暮ひぐらしあいです」
「さきほどは、お見苦しい所をお見せしました……」

「お待ちしてました!」
 建物の入り口を覆うブルーシートの裏から現れた男性が叫んだ。

「照魔機関K支部の捜査員 杉浦です。四辻さんの指示通り六敷商事のエントランスはブルーシートで覆い、警察と連携して、ガス爆発の危険があるということで、このビル周辺を封鎖しました」

 四辻と逢は後ろを向いた。さっきやっとのことで通り抜けた人混みがある。

「ですが、封鎖した区間の周りに野次馬が集まってしまいまして……。怪異の存在をどのように隠したらよいか、情報部と相談してます」

「いえ、ありがとうございます。動画撮影をしている人も見かけましたので、早急に対処します。報告を聞いた限りでは、危険度分類は低そうですので」

「これで低い方なんだ……」
 杉浦は呟くとまた咳払いした。
「現場に案内します」

 歩きながら、逢は六敷商事を見上げた——四角形の、二階立てのビルだった。

「滑りますんで、お気を付けて」
 目隠しのビニールシートを潜り、階段を登る前、逢は足元を確認した。赤茶の泥が薄く付いている。

「念のため、階段前のドアは閉じておきます。報告の通り現場は酷いもんです。とりあえず見てもらった方が早いかと」

 杉浦がドアを開けた途端、泥がドアの隙間から川のように溢れ出した。押し流されかけた逢は、咄嗟に戸を掴んで耐えた四辻に片手で抱えられるようにして助けられた。

「先に言っておいて欲しかったですね」
 真正面から泥をくらって苦笑いする四辻の視線を受け、杉浦は首を竦めた。

「すみません。さっきはこんなんじゃなかったんですが……。溢れる泥の量が増してるみたいです」

「ごめんなさい。また助けられちゃいました」
 腰に回された四辻の手から解放された逢は、足元に目を向けた。先ほどの噴出で既に膝の近くまで泥に埋まってしまっているが、泥が緩やかに流れている事から、徐々に泥が増していると気付いた。

「歩けそう?」
「はい、大丈夫です。あたしも四辻さんも、膝まである長靴を履いてきて正解でしたね。今はまだ靴下が汚れずに済みそうです」

 直後、泥に埋まった足を上げようとして長靴からすっぽ抜けた為にバランスを崩した逢は靴下のまま泥の中に片足を突っ込んだ。

「はっ!?」
「ふくっ……」
 笑うのを堪えた四辻を恨めし気に見上げて片足を引き上げた逢は、見るも無残に泥塗れの靴下を予想した。だが実際に靴下を見た彼女は首を傾げた。確かに泥に埋まっていたはずなのに、靴下にも皮膚にも全く泥が付いていない。
 長靴の中に足を戻した逢は泥を掬い上げ、手のひらの中で転がした。まるで里芋の葉の上を水が流れるように、泥は皮膚の表面を滑って跡一つ残さない。

「四辻さん、あたし達は幻を見せられているんでしょうか」
「どうかな。君も僕も流されかけた。この泥は、確かにここに存在しているよ。でも普通の泥とは違う、怪異の一部と考えていいのかもしれないね」

 四辻は室内の様子を眺めた。
 無人の部屋の中央の床から泥がドロドロ湧き出しており、中央にあった机は壁の方へ押し流されていた。デスクの上は雑然としていたり、パソコンが付いていたりしたので、ついさっきまで人が使っていたと簡単に想像できた。

「もう一度確認しますが、この階にいた人間は、慌てて避難した訳じゃないんですね?」

 四辻の質問を受け、杉浦は頷いた。

「はい。神隠しが起こる直前までこの部屋にいた手塚と腕木という社員が、この階に人がいたことを確認しています。外に出てすぐ、忘れ物を取りに戻った腕木は、同僚達が消えているのと、部屋の中央から泥が湧き出しているのを見たそうです」

「ありがとう、早い対応をしてくれて助かるよ」

「いえ、昨日の会議の後、怪異の出現に備えてこのビル周辺に待機していたので、速やかに行動できました。怪異の存在が表社会に知られてしまったら、思念を餌にする怪異達は力を増してしまいますから、そうならないように対応できてよかったです。でも、泥がどこから湧いているのかは、まだ特定できなくて……」

 杉浦はバツが悪そうに下を向いた。

「このビルは築二十年ですが、今まで特にこういった事象は報告されていません。周辺のビルもです。だから、土地の神の怒りを買った訳じゃないとは思うんですが……」

「ご心配なく。これは想定している怪異の仕業で間違いないと思いますよ。あの土地の穢れを取り込んだことで、よくない方向に力を増しているだけです」

「応援を呼びましょう」
 杉浦は不安そうな表情を浮かべたが、四辻は、「必用ありません」そう言うとドアを閉めた。泥の深さは増しているのに、不思議と簡単にドアは動いた。

 四辻の考えに気付いた逢は、彼のリュックから小包を取り出して包装を破き、小刀を渡した。その時小声で、

「本当にやるんですね?」
と確認すると、
「心配ないよ。今回に限り、僕の封印はもう解けているからね」
そう言って四辻は微笑んだ。

「怪異が住む世界は、人間が住む世界とは異なる異界です。目に見えない境界が、二つの世界を隔てているのです。神隠しに遭うとは、あちら側に連れ去られたということ。つまり、やることは一つです。境界に穴を開け、向こう側に渡ります」

 四辻は手袋を外して小刀を抜いた。

「祟りとは、怪異が人に害を成す行為を指します。妖怪変化の類であれば、面白半分に人を祟り弄ぶでしょう。しかし、神として祀られる怪異が祟る多くの原因は、穢れを持ち込まれたことによる怒りです。神は穢れに侵されたら零落し、災厄を振り撒く妖怪変化に堕ちてしまいますから。まあ、例外はいますけどね」

 そう言って、刀身を自分の手のひらに押し当てた。プツッと音をさせ、刃は手のひらと刀身を赤く染めた。

「即ち祟りと呼ばれる現象のほとんどは、神の悲鳴や、妖怪変化に堕ちた怪異の慟哭なのです。そして穢れに侵された怪異が住む異界に渡るには、同じように、穢れた道を用意しなければなりません」

 四辻が血染めの刀を一振りすると、血の飛沫がドアに赤い点状の飾りをつけた。その途端逢と杉浦は軽い眩暈を覚えたが、四辻は平然とした様子で刀を納めていた。眩暈のせいか、杉浦は一瞬、四辻の姿が繭のような物に変わったように見えた。

「成功しました。中に入りましょう」
「お待ちください。神無捜査官、部屋に入る前に、傷の手当を——あれ」

 四辻の手のひらを覗き込んだ杉浦は首を傾げた。そこにあるべきはずの傷が、見当たらなかった。

「ちょっとした手品です。ね、逢さん」
「え……あっ、そう、手品です! あらかじめ採血した血液を袋に入れて手のひらに仕込んでおいたので、実際に切ったように見えましたよね。儀式の為にわざわざ手のひらに傷を付けるなんてしてたら、傷だらけになっちゃいますから」

「とてもそうには見えませんでしたけど……」

「道は作られましたし、いいじゃありませんか」

 釈然としない杉浦を促し、四辻はドアノブを捻った。
 再び開けられたドアの向こうは、先程のように無人ではなく、いなくなったはずの人達が閉じ込められていた。

「あ、開いた?」
「助けが来たんだ!」
 ドアに押し寄せる人々。しかし皆、四辻達が入ってきたドアの向こうを見て愕然とした。たった今、三人が入って来たはずのドアが、泥の壁で塞がれていたからだ。

「どこから入って来たんですか?」
 そう聞かれると、四辻はふわりと微笑んだ。その様子を見て、ここに入れた詳細は伏せるつもりなのだと、逢は悟った。

「あなた達も巻き込まれたんですか?」
「助けに来てくれたんじゃないの?」

「もちろん、僕達は皆さんを助けるつもりでここに来ました。怪奇現象を取り除くのが、使命ですから。しかしその為には、目の前の問題を片付けなければなりません」

 四辻が目を向けた先、部屋の中央には巨大な足が鎮座していた。皮膚は厚い泥で覆われ、そこから流れ落ちる泥が部屋を満たそうとしている。

「この怪異の正体を暴くまで、僕達含め、全員が部屋の外に出る事は叶わないのです」

「えっ」と悲鳴を上げたのは、同行した杉浦だった。今更ながら、逢は四辻も自分自身も説明を杉浦にし忘れていたことに気付いた。


10月15日 異界内部

「四辻さんの予想通り、現れたのは大足の怪異でしたね」
 逢はタブレッドを操作して、あらかじめダウンロードしておいた照魔機関データベース内の検索結果を確認した。


「大足」 「泥」 の検索結果を表示します。

————閲覧中のページは、フィルターにより保護されています————

大足——【本所七不思議 足洗邸】で語られる、天井を突き破って現れるこの怪異は、当機関でも幾度か観測されている。足洗邸に類話があるように、怪異の正体は一つではないが、対処方法は常に足を洗うことである。

————当機関が記録した大足についての調査・捜査内容を表示する場合は、IDを入力してください。入力後も閲覧できない場合は、情報部に閲覧許可を申請してください————


 IDを入力した後、いくつかレポートの要約に目を通した逢は四辻にタブレッドを向けた。

「この大足に類似した怪異は、機関でも複数体記録されています。代表的なのは、表社会でもよく知られている本所七不思議の足洗邸に登場した個体ですが、怪異の正体はその時によって異なるようです。この個体はおそらく——」

 四辻がそっと口の前で人差し指を立てるのを見て、逢は口を閉じた。

「すみません」近くにいた社員が寄ってきた「外はどうなっているかわかりますか? 近くのマンションに妻と子供がいるんです。避難できたかわかりませんか!?」

「どういう意味でしょうか?」
 四辻が首を傾げると、社員は四辻の肩を掴んだ。

「どういう意味って……何をとぼけた事言ってるんですか! あの巨人にマンションが潰されてないか教えてくださいよ!」
 その様子に、周りからも不安の声が上がり始める。
「こんな巨人が街の中に現われたんじゃ、街中、いや日本中がパニックだろうな」

 周りの反応を見て、ようやく四辻は納得した。

「皆さん、どうか落ち着いて聞いてください。あの大足には、ふくらはぎから上はありません」

 どよめきの中、四辻は説明を続けた。

「大足の正体は、その時によって変わります。持て成しを求める山の神であったり、狸であったりするようですが、この度のこれは、そのどちらでもありません。そして襲われたのは、この部屋にいる皆さんだけです」

「あたし達は外の様子を見てここに来ましたが、あの怪異に踏み壊されたのはこの部屋の天井だけです。証拠の動画もあります。このビルの騒ぎは、外ではガス漏れと報道されています」

 逢があらかじめ保存しておいた、野次馬がSNSに上げた動画を見せると、そこに映り込んだマンションの無事を確認した社員は、僅かに落ち着きを取り戻した。

「じゃあ、何で俺達だけ……」
「あんたらさっき、助けに来たって言ってたよな? 早くあの化物、何とかしてくれよ!」

「お待ちを。僕達は実力行使であれを取り除くとは、一言も申し上げておりません」
「まずは、あれの正体を暴いて、祟りの原因を究明する必要があるんです。そのために、ご協力お願いします」

「何だよそれ! ふざけんな!」
 一人が癇癪を起したように椅子を振り上げ、窓を叩き割ろうとした。その途端、大足が足を踏み鳴らした。オフィスは激しい揺れに襲われ、そこら中から悲鳴が上がった。

 四辻が数枚の札を大足に向かって投げつけると、札は空中で糸のように解けて縄となり、大足に絡みついた。
 揺れが収まった後、複数のデスクを縫うように通された縄と、その先に続く縛られた大足を見た全員は、瞳に期待と僅かな畏怖の色を浮かべて四辻を見た。

「所詮は時間稼ぎです。このまま放置すれば、泥はこの部屋どころか建物全体を満たしてしまいます。怪異の正体を暴くため、ご協力お願いします」

 今度は、異論を唱える人はいなかった。

「怪異の出現には、必ず理由があります。当然、このビルに現れたあの大足にも、何か訳があるのでしょう。たとえば——死者の未練がそうさせた、とか」

『未練』と口にしたとき、あからさまに動揺した三人を、四辻は見逃さなかった。

 目を逸らした三人——総務経理の川尻、夏目、橋爪——を真っすぐに見た四辻は、
「心当たりがおありですか?」
と、三人に問いかけた。

「はぁ? ある訳ないでしょ!」
 川尻が怒鳴り声を上げた。

「冗談はよしてくれ」
 橋爪は溜息を吐いた。

 夏目は何も言わず、下を向いた。

「理由が知りたいなら、あの足に聞いてみたらいいじゃないの」
 そう言って、川尻が挑発的に笑った。しかし、

「おや。あの足は何か喋ったんでしょうか?」
 そう聞く四辻の美貌に見惚れたらしく、挑発的な姿勢は崩れた。

「あ……足を洗えと一言」
 下を向いて、彼女は小さな声で答えた。

「足を洗え、ですか……」四辻は三人を観察するように見た後、フッと笑った。

「なるほど。それなら、やる事は一つです。足を洗いましょう」

 四辻と逢はリュックを下ろし、中に入っていた白い雑巾と2Lの水が入ったペットボトル、折り畳み式バケツを取り出すと、部屋にいる全員を集めた。

10月15日 異界内部 清掃開始

 一体なぜこうなったのか——夏目は釈然としないながらもバケツで雑巾を絞り、大足の表面を雑巾で拭った。

 こびりついた厚い泥が雑巾で落ちる訳がない——その予想は、簡単に覆った。雑巾で拭う度、泥は塊となって簡単に落ちていく。さらに不思議な事に、いくら拭っても雑巾は真っ白なままだ。自分の手も汚れていない。

 しばらくして——

「お疲れ様です。雑巾を濯ぐ水はいかがですか?」

 声に振り向くと、バケツを手にした栗色の髪の女性が立っていた。彼女はたしか、日暮逢と名乗ったと、夏目は思い出した。

「まだ大丈夫そうです。どういうことかわからないけど、全く汚れてないんです。泥は落ちるのに……」

 そう答えたが、不思議と逢と視線が合わない。なぜか彼女は、夏目の手の甲に注目しているようだった。思わず怪訝な目を向けると、逢は顔を上げて、

「猫を飼われているんですか?」
と聞いてきた。

「ええ、まあ。よく引っ搔かれますけど」

 逢は頷くと「大変ですが、引き続きお願いします」と言って他の社員の様子を見に行った。

(バケツを持って一人一人に声かけて周るんじゃなくて、同じ位置に置いとけばいいのに。あれじゃ効率悪いでしょ)

 単に要領が悪いのか、それともサボりたいだけか。疲れから腹を立てた夏目は、雑巾を擦る手を強めた。その時、落ちた泥の中に何かが混ざったのに気が付いた。

「何これ」
拾い上げてみると、通帳のようだった。泥が付いた名前欄には微かに——橋の文字が見えた。

「橋爪さんの? 何でこんなところに……」

「うわ、なにこれ」
 声がする方を見ると、川尻が大足の泥の中から何かをつまみ出していた。

「帳簿?」
 川尻が拾い上げた帳簿を睨んだ時だった。血相を変えて走ってきた橋爪が、帳簿を奪った。

「は、橋爪さん……?」
 動揺した川尻が恐ろしい物を見るような目を橋爪に向けた。

「何でもない」
 橋爪は、川尻の視線を恐れるように帳簿を体の後ろに隠した。しかし彼に向けられた視線は、一つではなかった。

「橋爪さん……」
 真っ青な顔をした夏目は両手で口を押え、か細い声を絞り出した。
「橋爪さん、その手どうしたんですか?」

「手?」
 夏目に指摘され、手を見た橋爪は首を傾げた。

「汚れた足を洗ったせいで、手が汚れたんだよ。こいつのせいで泥塗れだ」

「おや? あなたには、これが泥に見えているんですか」

 いつの間にか橋爪の後ろに立っていた四辻が橋爪の手首を掴んだ。
 その途端、橋爪の視界に異変が起こった。手のひらにべったりと付いた泥が、みるみる赤く染まっていく。さらには鉄臭い異臭まで立ち込め始め、ようやく自分が血塗れになっていることに気付いた。

「これ、は……」
 後退る橋爪。しかし、手首を掴んだ四辻がそれを許さなかった。

「誰の血ですか、橋爪さん。ご自身のではありませんよね?」
「し、知らない。俺は何も知らない!」

「そろそろ、やめにしませんか?」
 橋爪の前に、逢が立ち塞がった。その手には書類の束が握られている。

「昨日、みとし山で足立さんの遺体が見つかりました。ご遺体を調べたところ、扼殺であることが判明し、爪からは、犯人の物と思われる皮膚が検出されたんです。これはその分析結果です」

 逢は書類で橋爪の手を差した。

「先ほど、雑巾を濯ぐ水を配るふりをして、社員の皆さん全員の手を拝見させていただきました。橋爪さん、その手の甲の傷は何ですか?」

 四辻は掴んだままの橋爪の手を持ち上げて、手の甲に付いた血液をハンカチで拭って絆創膏を剥がした。

「おや、ひっかき傷のようですね。それに、どうも猫のじゃなさそうだ」
「足立さんの首を絞めた時についた傷ですよね? DNAを採取させていただきますが、よろしいですね?」

「扼殺って……どういうことですか……。足立さんは、遺書を残して失踪したんじゃなかったんですか」
 橋爪を見る夏目の目が吊り上がった。

「どういうことですか、橋爪さん!」
 川尻が橋爪に詰め寄り叫んだ。

 橋爪は唇を震わせたが、やがて深い溜息を吐いた。

「まさか、こんな形でバレるなんてな」
「やはり、あなたでしたか」

「最初はほんの出来心だった。でも、全くバレずにできてしまったから、続けてしまった。そのうち返せばいいと、軽い気持ちで……。

 一昨日の夜、久しぶりに足立と飯を食べた。その時に指摘されて、金を会社に戻すなら見逃すと言われた。そこでようやく、返せないほどの額を使い込んだ事に気付いた。

 告発すると言われて、怖くなった。だけど同時に、足立が憎くなった。こいつさえ気付かなければ、今ここで口を塞いでしまえば、そんな気持ちが膨れ上がった。そして気付いたら——足立の首を両手で絞めていた。

 手を放した時には、手遅れだった。足立を殺してしまったという事実から逃げたくなった。恐ろしくなって、足立の遺体を山に埋めた

 破裂音が部屋に響いた。

「最低です橋爪さん」
 橋爪の頬をはたいた夏目が、泣きながら橋爪に掴みかかった。

「どうして殺したんですか! どうして足立さんの所為にしたんですか! 全然納得できませんよ、橋爪さん!」

「夏目ちゃん!」
 川尻と近くにいた社員に止められても、夏目は橋爪を睨み続けた。

 打たれた頬を片手で擦っていた橋爪だったが、四辻が掴んでいた彼の手に手錠をかけると、頬を擦っていた手も差し出した。

「足立は、俺に自首してくれと言った。でも俺は罪を認めたくなくて、あいつに全部押し付けてしまった……。真面目なあいつが化けて出てくるのは納得だ」
 両手にかかった手錠を見て、橋爪は苦笑した。
「怪奇現象を取り除くと言い出した時は、妙な奴らが来たと思ったが、君達は刑事だったのか」

「当たらずとも遠からずといったところです。何かと不自由なので、警察には助けられてばかりですが、今回のように犯人逮捕に協力することもあります。持ちつ持たれつというやつです」

 四辻はそう答えると、杉浦を呼んで橋爪を任せた。
 次に逢に視線を送ると、彼女は頷き、ある法則で手を組んで、指の隙間から四辻の姿を見ようとした——が、それよりも先に、大足が崩れ出した。

「僕の出る幕ではなさそうだ」
 崩れた大足の泥の中から立ち上がる影を見て、四辻は微笑んだ。

 現われた人影を見て、夏目は目を見開いた。彼女のよく知る、くたびれたスーツを着た足立が彼女に片手を挙げて挨拶して、そのまま消えていった。

 やがて大足が崩れ去ると、部屋を覆っていた土の壁も無くなっていた。異界から元の世界に戻ったようだが、床を覆っていた泥も幻のように消えていた。

10月15日12時40分 六敷商事エントランス


「たった十分位しか経ってませんね」
「彼が作り出した異界は、時間の流れが緩やかだったようだね」
 スマホの時計を見た逢は首を傾げたが、四辻は何でもないという風に笑った。

「いくつかわからない事があります。どうして、橋爪さんだけが泥まみれになったんでしょうか」

「それは……あれじゃないかな。横領という犯罪から足を洗う為に、手を汚した奴がいるって、洒落の効いた告発だったんじゃないかな」
「えぇ……」

「足立さんらしいです」

 二人が振り向くと、夏目が深く頭を下げた。

「ありがとうございました。橋爪さんのことは許せませんが、足立さんが満足そうに消えていったのを見て、少し心が晴れました。きっと、足立さんは私に不正を見つけて欲しかったんだと思います。でも、できなかった……。

 神無さんと日暮さんが不正を暴いてくれたから、足立さんは未練が晴れて、成仏してくれたんだと思います。本当に、ありがとうございました」

「大切な人を思う強い気持ちは、故人に安らぎをもたらすそうです。あなたの祈りは、きっと足立さんの魂を救うでしょう」
「はいっ……」
 四辻の言葉に夏目はくぐもった声で答えた。顔を上げた彼女は、涙に濡れて赤くなった目を押さえていた。

 何度も頭を下げる夏目に見送られながら、二人はエントランスを出た。

「足立さんが成仏できてよかったですが、四辻さんはよかったんですか?」

 逢がそう聞くと、苦笑が聞こえた。

「彼は怒りから穢れを取り込んで妖怪変化の類になりかけていたけど、最後は穢れを手放して自分自身を取り戻した。だから僕が出る幕はなかったんだよ。お腹はちょっと空いてるけどね」

依り代になっても珠月様のままだから、機関は手放したくなかったんでしょうね

 四辻は足を止めた。逢の様子を窺うと、彼女は片手で頭を押さえていた。

「すみません、ちょっと眩暈が。あたし、何か変なこと言いませんでした?」
「……何も。でも、早く問題を解決して、寮に戻りたいね」

「まだ先は長そうですけどね。橋爪さんは、さっき『遺体を山に埋めた』と言いました。とても遺体損壊を指示する共犯者がいたように聞こえませんし、調べるのはこれからですが、多重人格障害を患っている可能性も低いように思います」

「となると、やっぱり足立さんが自分の遺体を発見させる為に移動させたと考えていいのかな」

「そう思います。もしそうだとしたら、足立さんの遺体をバラバラにさせたのは、一体何の意志なんですか……?」

「まずは、本当に埋めただけなのかどうか、話を聞いてみようじゃないか」

「神無捜査官! 日暮捜査官!」
 声を張り上げて杉浦がやってきた。
「大足の怪異が依り代にしていた左足の回収が終わりました。まさか、怪異を使って殺人犯を炙り出すとは……」

「ははは。偶然にも、そうなってしまいましたね」

 そう言って笑う四辻の言葉をどこまで信じていいか分からず、逢は目を細めた。少なくとも、道具を準備して、怪異の正体の予想が付いていたのにも関わらず、黙っているようにジェスチャーした四辻には、怪異の足を社員に洗わせる意志があったように思えた。

「それから、情報部から怪異を目撃した社員と神隠しに遭った社員には、イレイザーを用いて怪異を秘匿するように指示がありました。既に二人には実施しましたが、残りはどうしましょう」

 イレイザーと聞いた逢が頭を押さえるのを見て、四辻は矢継ぎ早に指示を飛ばした。

「大足の事象を目撃した社員は全員、エントランス内に留まってもらっています。メディアやSNS対策を終えた支部の担当者がそろそろ来ますので、後は担当者の指示で動いてください」

「了解しました」

「では、僕達は取り調べがありますので、失礼します。ご協力ありがとうございました」

 四辻に引っ張られるようにして、逢は一礼してから歩き出した。人混みを抜け、現場から離れた駐車場まで行くと、四辻はようやく逢の手首から手を放した。

 逢は痺れる手首をプラプラと揺らしながら、恨めしそうに四辻を見上げ、息を呑んだ。いつも優美な雰囲気を纏う彼が、今は暗い影のような、触れるのを躊躇うような憂いを帯びている。

「四辻さん……大丈夫ですか?」

 逢の呼びかけに、四辻は力なく微笑んだ。

「僕は大丈夫。でも、悲しいよね……せっかくお別れができたのに、夏目さん、商事の人達も……さっきのこと忘れちゃうんだよ」