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喩える力は共感能力につながる

皆さんこんにちは、しまさです。

最近、喩える力というのは、共感能力に直結すると気が付きました。共感の中でも、主に認知的共感という相手と同じ感情にならない共感です。

認知的共感は相手と同じ感情になる情動的共感とは異なり、相手の視点に立って感情を推論することが必須です。そのため、誰にでも出来るような簡単な能力ではありません。

では、何が認知的共感に大きく関与しているかと考えた時、それは喩える力ではないかと思うのです。今回は私がそう考える理由をお話ししていきます。


①例えと喩えの違い

「例え」は具体例や先例などのように、実際に例示できるものがある場合。example.

「喩え」は似たようなものに置き換えて話す場合に用いる。metaphor.

現在では「例え」が用いられることが多いようで、metaphorの意味で例えを使うのも全くの間違いとは言えないかもしれません。ただ、具体例がある場合に「喩え」を使うのは相応しくないと思います。

例えと喩えの違い

個人的に一番しっくりきた説明を引用します。

「例え」は具体例といった言葉のように、元の事象を具体化しています。一方で、「喩え」は元々の事象を別の事象に置き換えています。そのため、具体度としては、元の事象と変わりません。

「例え」が具体化のみをしているとしたら、「喩え」は一度抽象化してから具体化し、元と同じ具体度に戻しています。つまり、「喩え」は元と違う表現でも、抽象度の高い本質的な部分ではちゃんとつながっているのです。

「例え」も「喩え」も理解を進める手段なので、使われ方は同じように見えるかもしれません。しかし、具体例と比喩とでは、元の事象との具体度に差があります。

「喩え」とはあくまで置き換えです。そのため、元と同じ具体度となることが、「例え」との違いなのです。

②どう認知的共感につながるのか?

では、どう喩える力が認知的共感につながるのかを説明します。そもそも、認知的共感では相手と同じ感情になっていません。つまり、相手と違う感情である状態から、相手の感情を推論しなければいけません。

そこで、喩える力です。相手の行動や話している内容を、自分が理解できる別のものに置き換えて考えるのです。

例えば、私は最近、ハイキュー‼というバレーボールが題材の映画を観て、無性にバレーをしたくなりました。おそらく、この感情は同じ映画を観ないと湧きおこりません。しかし、スラムダンクの映画を観てバスケをしたくなった人なら、私がバレーをしたくなった気持ちを理解できるのではないでしょうか?

バレーをしたくなる感情も、バスケをしたくなる感情も、共にその内容のスポーツ映画を観た点では同じです。つまり、本質的な部分は同じになります。スポーツは違うにしても、湧き上がってくる感情は近しいものなのです。

喩えたものの具体度は元の事象と同じです。そのため、置き換えられたものによって生まれる感情も、きっと近しいものになります。これが、認知的共感能力と喩える力が相関すると考える理由です。

もはや相手と同じ感情になれているなら、たとえ推論であっても、情動的共感と言えるかもしれないですね。

本質を理解して違う具体例を考える

先程は、自分の体験から理解できるものに置き換えることを例に出しましたが、そこにこだわる必要はありません。他の人から見聞きしたことに喩えたって構わないのです。

例えば、ハイキュー‼もスラムダンクも知らないけど、「スポーツ映画を観るとそのスポーツをしたくなる」という話を聞いたことがあれば、似た話を聞いた時に相手の感情を理解するのは難しくありません。

結局、大事なのは相手の話の本質を理解できているかです。そして、本質を理解できていれば、同じ本質の違う具体例に対応できます。

喩えた事象の具体度は元と同じで、本質ではつながっています。つまり、喩えるためには本質を理解することは必須です。

本質を理解できなければ共感することも難しいですし、そういった意味でも、喩える力は高い共感能力につながるのではないかと思います。

まとめ

喩える力は認知的共感能力につながります。なぜなら、本質を理解して、自分が理解できるものに置き換えることで、相手の感情を推論できるからです。

認知的共感が誰にでも出来るわけではないのも、きっと本質を理解して喩える力を、誰もが持っているわけではないからだと思います。しかしだからこそ、認知的共感は価値がある共感能力なのです。

以上です。最後まで読んでくれてありがとうございました。


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