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芸術との距離感について


ずーっと感じていたアートと他者との
距離感についてのモヤモヤ

少し晴れたので文章化します。



立て続けに芸術に触れる機会がありました。


アートっていいねではなく、揺さぶられる。あなたそんな価値観があったんだねという発見。いらなかったものが壊されるようなもの 

知らず知らず人に合わせて
何かが薄まっていたのかもしれない

今という時を生きるなかで見失う距離感。動物でいう縄張りみたいなものについて書こうと思う。


◎ひとつ目は劇団四季へ





劇団四季はアラジンのチケットをプレゼントされて初めて行ったミュージカル。大人になって自分の足でミュージカルを観に行くのは初めてで
全く興味がなかったのです。

俳優さんの汗や表情がわかるほど近い席だった。

インスタのストーリーに
直後に書いた言葉

芸術=生身の人の人を魅了する力
存在の尊さを具現化すること


力、圧ではない世界をひとりひとりが創っている

人のエネルギーの凄まじい美しさ

魅了され
涙がポロポロ流れた。

悲しい物語ではない。圧倒され浸水しその世界があるように感動したのだと思う。

流したい涙



これは劇団四季初めての人の発見です。(常識かもしれない)

(劇団四季の舞台、私が観劇したのはアラジン。)


お客さんは声を出さないし、劇始まってからは写真もNG。舞台終わりも始まりも俳優さんとの距離感は一定。声を交わさない。紹介もない。

アラジンはアラジン。ジーニーはジーニー。ジャスミンはジャスミンで終わる。

客席にも特殊機材で飛んできたりもしない。舞台とお客さんとの距離は一定。

表情、オーラ、声、歌、色、音楽で
客席を魅了する。

こちらも汲み取ろうとする。
見ようとする。
感じることに神経を集中する。

何も食べない
何も飲まない

それが氣持ちよかった。

礼節があるような観客と舞台芸術の
距離感を感じました。



今、スマホひとつで24時間アートが買える。
行かなくても行って観てるような気になる技術も浸透し導入されている。  


写真もシェアし放題

それも需要があるからなのかもしれない。

何かこの瞬間にしかない感動が
血になるように
心が洗われて
細胞が洗われてキラキラするような体感は
リアルならではだと思う。

ずーっと感動が生きている

芸術家に対する尊敬が込み上げて
手が痒くなるほど拍手をした。





ふたつめは表参道


で開催されていた

Masaki Hagino

さんの原画展示へ

私のことを話すと
今HPを新しく作っている最中で、彼のブログに出会った。アート、ART、芸術、美術について私はいわゆるアウトサイダー作家というもので勉強も教育も受けていない。

描きながら学ぶ。私が続けてきたことはそれだけだと思う。

彼のブログを読む中で、自分の立ち位置というか美術について、とても興味を持った。

私がやっているのはなんなのかという疑問ではなく爽快な興味。

自分が晴れ晴れしていくような文章なのだ。
あたりまえだけど時に難しい。

芸術をやる人で興味がある人もない人も読んでみたら学びがあると思います。

一気にファンになってしまった。


背景が全く違う人の言葉で自分が照らされることがある。

そんな経験をしている。

主観と時間、記憶の関係における考察Ⅲ

〈Masaki Hagino 〉


主張がないというか。

近づいて見るときと離れて見たときの作品の世界が違うのです。ぐるぐる


だから鑑賞者は探す。迷う。あれ?って。

離れてみると何かわかったような気になるけれどやっぱり何かわからないものに出会った喜びが大きくて、感想を他者から聞きたくなる。

存在していないリアルのような

引き込まれてしまいました。

また観に行きたいと思っている。
わからないから。

わからないっていいのかもしれない。 


私は絵に説明をさせていた。

他者とも近づいたり離れたり
距離感を固定しようとしていたのかもしれない。
これはいらない。

親切にすることで奪うことも
きっとたくさんある。




ここからはコビトフカミの考察


芸術との距離感は作者が意図したところから生まれる。どこにいても何をしていても。そこに他者はいない。

他者が入るときまた新たな距離感が生まれるのだけど、作品と作者との距離感は歪むことはあっても変わらないものだと思う。


他者が入る距離感
作品と作者との距離感

時空を超えて行き来する

それが芸術の美しさなのだと感じたのでした。

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