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克己心とイエスマン

大学に入学してから決めていた事がある、最寄り駅まではちゃんと徒歩で行くということ。自分の家から最寄り駅からは大体歩いて14分ぼちぼちの距離だ、別に自転車で行ってもいいのだが自転車で行くと駐輪場に停めるのに100円かかるしそれを週5で続ければ500円、月に換算にすれば2000円の出費である。これが嫌で一年生のうちは歩いて行っていたのだが二年生になってからというものかなりの頻度で自転車で行ってしまっている、別に自分の稼ぎが増えたから2000円ぐらい別に出しますよという訳では断じて無い、むしろ色んな所への支出が増えて一年前よりもカツカツな現状である。では何故こんな事になってしまっているのか、それは間違いなく自分の怠惰である二年生になってから起きるのは遅くなったしそれのせいで家を出る時間も遅くなった、それで乗る電車遅くなり、今日だって電車で座ろうと思っていた椅子に向かう手前でほかの人に座られた(これは別に関係ない)。自転車の件だけではなく怠惰が続き自分の生活は最近上手く回ってない、何かをしなくてはいけないけどボケーっとしてしまっている。こんな状況に陥った時思い出した言葉がある「克己心」だこれは自分の欲望に打ち勝つ意志という意味だ。これは自分が剣道をやっていた時に教えてもらった言葉だ、剣道をしていた時代の記憶はとてもおぼろげで覚えていることは少ないがこの言葉はその数少ない思い出の一つだ。しかし自分はこの言葉があんまり好きじゃない、あと頑張れ!とか自分に負けるな!そういう言葉を考えなしに乱発するのが嫌いだ。結局それは自分の中の心みたいなものを抑圧しているのではないかと感じる、それはただ自分の怠惰な気持ちを一時的に抑えているだけで、時間が経ったりある日をトリガーにその抑圧が効かなくなることだって大いにある話だ、必要なのは怠惰な気持ちをどれだけ乗り気にさせれるかここにかかっていると思うがこれに気付いたのはつい最近の話である、自分は自分や自分の周りにガチガチにルールを決めて制限しまくっていた時期があった、それの所以は自分の高校にある。この学校は部活動が活発なためにイエスマンを量産する所だったのだと思う、顧問の言う事、先輩の言う事、規律を聞かなければ、守らなければ自分の立場が悪くなるので「はい!」と言い、いえば開放されるみたいな感じだった。ここで自分はルールで縛れば、ペナルティを課せば自分は目標達成が可能だと思っていたのだ、それで失敗をしたし、苦しい思いもした。思い返せば高校でもみんな表ではイエスマンだけど、裏になれば好き勝手やっていた。結局抑圧するだけでは良い物は得られない、これは自分が「克己心」の言葉を思い出して、改めて考えさせられたことである。行き過ぎた怠惰は勿論律するべきだと思うし、良くないなと感じる。でもそれをネガティブな言葉で自分を自傷するような律し方は違うと考える。「自転車で行くより、歩いて行く方が色んな景色が見れて、運動になるよ!」みたいな風に自分の怠惰な気持ちをワクワクさせて、乗り気にさせる言葉が大事だと思う、自分はそんな「克己心」をもって楽しんで、ワクワクして生きたい


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