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虚構への侵入 「マトリックス リザレクションズ」

 俺は今でも忘れない。「マトリックス リザレクションズ」の公開に合わせて公開されたUnreal Engineのプロモーションのあの衝撃を。

 今よく見返せば「すごく」作り込まれたCGIだとわかる。ただ当時の自分は、後部座席にいるナイオビが追ってくるエージェントに銃を撃つその瞬間、赤い照準マークが出てくるその時まで呑気に「ネオとトリニティの若い頃の顔を合成したのかな、まあよくできた映像だな」なんてことを考えていた。

 もちろん途中まで実写パートがあったから、そこからゲームへの切り替えがあまりにもシームレスだったが故に騙されていたわけだったが、それにしたってこんなにも技術は進化したのかと戦慄をしたものだった。

 過去マトリックス三部作のテーマが「運命」へのアンチテーゼだったとしたらリザレクションズはなんだったのかはきっと「曖昧さ」にあるのではないだろうか。
 現代の創作行為やコンテンツ消費社会に対する皮肉、アイロニーはもちろんの事、「マトリックス」的なテーマを見出すとすれば、現実と仮想の曖昧さというところに「リザレクション」がある意味がある。
(三部作の「運命」がテーマといったのは「全てが演算可能で予見可能なバーチャルの世界において、ヒューマニティが付け入る余地があるのか?それは意図的に起こすことができず、あくまでも”揺らぎ”という大変曖昧で奇跡的な確率でしか起きえないものはどれほどの影響か」という文脈である)

 いやいやいや、第一作でも同じこと言っていますやん、と言いたいところ。だが一作目は白昼夢と現実の対比だとすれば、リザレクションズは「ラリっている時に見ている幻覚」と「コンテンツ消費に慣れ切った世界」と少し拡張しているように見える。もう少し言葉を選べば「虚構(物語)」と「日常」となるのだろうか。
 
 現実と虚構がシームレスに繋がる時、自分の体験で言えば「ファントムペイン」だったり「7」以降のバイオシリーズだったり、「FF7R」であったり。その時に感じる正体不明のあの「びっくり」するという感覚は、実は「恐怖」に近いものがあると考えている。
 人間存在は、実は単純な物体に還元されてしまうのではないかという恐怖、と「イノセンス」でキムがバトーに語ってたあの感覚である。

 虚構が現実に入り込むのではなく、実はその逆で現実が虚構の世界に入り込むのである。

 そして思っているより現実はあまり価値がない。(いやもうみんなも案外そう思っているかもしれない。)
 あの物語は実はアンダーソンが会社の屋上から飛び降りようとしたところまでが現実で、そこに都合よく止めに入ったところから虚構、物語の世界が始まる。
 そう解釈すれば腹落ちできるところはかなり多い。
 前半で、現実がどんどん陳腐化していく世界を皮肉って、後半甘美な物語で酔わせにかかり、観る人を人を痺れさせるのだ。

 危機感持った方がいい。物語の世界にのめり込んでしまうことではなく、あなたはただのbotでしかないということに。
 そうしてどんどん作品は退屈な現実にどんどん侵食されていってしまうのだ。

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