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最高裁判事の内閣による任命

法律等の状況

 最高裁判所は、長官1名および裁判官14名により構成される。長官は内閣により指名され、それに基づいて天皇が任命を行う(憲法6条2項)。裁判官は内閣により任命され、天皇がそれを認証する(憲法79条1項)。つまり、長官と裁判官の合計15名の人事は内閣によって決められている。内閣による人事が行われたのちに、衆議院選挙と同時の最高裁裁判官国民審査が行われるのである。なお、その他の裁判所に関するルールは、国会が制定した裁判所法と最高裁が制定した規則に定められている。

 内閣による指名・任命での手続きや人事の判断基準について説明する。最高裁の長官および裁判官の指名・任命のための手続きや基準は、その多くが最高裁の人事に関わる組織間の慣習によって決められている。裁判所法に定められているものもあるが、その内容は非常に曖昧なのだ。例えば、裁判官は「識見の高い、法律の素養のある年齢四十年以上の者(裁判所法41条)」から選ばれるが、「識見の高い」や「法律の素養のある」という言葉が具体的にどのような基準を導くのか、明確にされていない。最高裁の人事についての慣習では、まず弁護士団体や関連省庁が、最高裁判所に対して推薦する人事を連絡する。それを参考に最高裁判所が内閣に対して人選を伝え、それを内閣が決定するというものだ。長官が最高裁判所の代表として内閣に対して人選を伝えるため、長官がこの人選に大きな影響力を持つ。また、15人の出身分野は決まっており、裁判官6、弁護士4、学識者5(大学教授1、検察官2、行政官1、外交官1)という枠が与えられている(1)。裁判官枠については最高裁判所自身が選び、弁護士枠は日弁連、学識者枠は検察庁および法務省が選ぶ。こういったルールのもとで最高裁判所の人事が行われる(2)。しかし、政権によっては上記の慣習を破るケースもいくつか見られる。例えば、1971年、当時の佐藤栄作首相は元外交官の下田武三と事前に約束を交わしており、最高裁などの意見を聞くことなく、下田を最高裁裁判官へ任命したケースである。近年では、2017年に日弁連が推薦した弁護士が選ばれず、代わりに刑法学者である山口厚が任命されるということがあった(3)。山口厚は、任命される数か月前に弁護士資格を取得しており、形式として弁護士であったものの、実質的には学識者であった。これら以外にも、慣習に反する形での人事が行われたことがしばしば指摘されている(4)。

 次に、下級裁判所の裁判官は「最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する(憲法80条)」。下級裁判所とは、最高裁以下の全ての裁判所のことである。「名簿」とは、最高裁が作成する、候補となる者の名簿のことであるが、名簿に載せる候補者の人数等についての規定はないため、最高裁が補填される人員の数だけ候補者を挙げれば、内閣に選択の余地はなくなる。そのため、下級裁判所の人事は最高裁が決めることができるのだ。ここで重要なのは、内閣による最高裁の人事と同様に、どのような裁判官が名簿に載せられるか、という基準が定まっていないことである。この基準は、模範的な裁判官の姿を示すものでもあるのでとても重要なはずであるが、これがないことによって下級裁判所の裁判官が萎縮する懸念がある。詳しい内容は、以下で述べるが、とにかく最高裁は司法システムにおいて強い統制力を持っていると言えるのだ(5)。

 以上、最高裁判所における人事制度を概観した。しかし、さらなる詳細については、法令によって明文化されていない以上、分かっていないことがいくつもある。例えば、最高裁が裁判官枠の推薦を決める際、または行政機関が学識者枠の推薦を決める際、内閣は心理的ないし組織的にどれだけ影響を与えているのか、などの点である。こういった点は、慣習という曖昧な形式で人事が行われているため結果的に内閣とその他の組織がどういった力関係にあるのかを明確にするために非常に重要な点である。


問題性

 以上のような慣習に基づいた最高裁の人事は、内閣による恣意的な長官および裁判官の任命を許すこととなる。そもそも、慣習とは法令に比べて不安定なものである。法律による拘束力を持たない慣習は、当該時勢における均衡状況によっては、特定のアクターによる専断を可能にする。また、ルールが明文化されていない以上、様々な基準は曖昧にならざるを得ないのであって、したがって慣習の逸脱に対しての追求も難しくなる。こういった慣習の不安定性は、以上で見てきたような内閣による逸脱行為により証明されている。内閣による逸脱行為において排除されているのは、主に日弁連による推薦意見である。その理由として、日弁連は組織の理念として「人権擁護と社会正義の実現」を掲げるなどリベラル色の強い組織であり、保守的な性格を持つ自民党とは意見が合わないことが考えられる。こういった主張の異なるアクターを排除しようとする意向が人事から見えることは、内閣による恣意的な人事がされている側面の証明となる。内閣が自らの意向を、本来は対立すべき作用である司法の人事に反映させることには、様々な問題がある。その具体的な問題については、司法における根本的な原則である司法の独立、裁判官の独立という二つの点から述べる。

 司法の独立(憲法76条1項)とは、司法は国会・行政などの他の国家作用から独立し、それ以外のいかなる組織からも独立して裁判等の業務に勤めることを指す。これは、公正な裁判を行うことが個人間の紛争を解決するための適切な方法であるというだけでなく、国家権力と個人の関係を維持・改善するために必要だからこそ定められている原則である。しかし、現状の内閣と最高裁の関係性は、互いに独立し、相対するものとは言い難い。現状の最高裁裁判官の人事には内閣が大きな影響力を発揮している。そのような人事制度の中で選ばれる裁判官が、内閣と意見を異にする判決を出すことは少なくなるだろう。第一に、内閣の政治的立場と適合的な裁判官が選ばれやすいため、その裁判官の心証のみによって決められる判決は、内閣の方針や政策を批判的に捉える傾向が弱まるのは必然である。第二に、たとえ裁判官が具体的な事案において内閣と意見を異にしたとしても、内閣に対する忖度をする可能性がある。裁判官自らが内閣と対立するような判決を出すことによって、内閣がさらに慣習を逸脱し、最高裁人事への影響を強めることを危惧するのだ。裁判官が判決を出す際、将来の同じ事案に対する影響など、判例が与える長期的な影響は当然に考慮される。しかし、現状の人事制度では、政治的・組織的な影響も考慮することとなってしまう。よって、最高裁裁判官が内閣の意向に反対するような判決が出づらい環境が作られているのだ。
 この状況は、司法が立法や行政に対して消極的になるという現象と捉え、憲法学的に司法消極主義と呼ばれる。司法消極主義とは、司法が立法・行政に対して違憲判決などの踏み込んだ介入に対して消極的である姿勢を指す。司法消極主義それ自体は、批判されるものではない。司法と立法・行政の関係性は、個人の自由を守る自由主義と多数派の主張を重視する民主主義の衡量として語られることがある。司法消極主義は、この中で民主主義を重視する立場である。それぞれの立場が、正当性のある論理に支えられているのであれば問題はないだろう。しかし、日本における司法消極主義は、いささか無理のある法理論に基づいて導き出されている。違憲判決を行わないためには、個々の事案についてそもそも憲法判断を行わない方法、憲法判断は行うものの合憲判決を出す方法の二つがある。前者では例えば、国会や内閣の行為に対する憲法判断を控える論拠の一つとして、高度に政治的な事案は司法権が判断をするべきではないとする統治行為論がある。この法理論は、最高裁が「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する」とする憲法81条に明確に反するものである。そのため、なぜこの法理論が正当化されうるのか、という点についての説明が必要であるが、その点の説明は明らかではない。学説上の対立でも、そもそも統治行為論の存在意義を疑う学説が有力である。また、この法理論が適用される事案が、国家の存立に直接かかわるようなハイポリティクスの問題であれば一定の合理性が認められるという見解もありうるだろう。しかし、国会の運営手続きなどに対して統治行為論が適用された久米地事件では、行われた手続きについての合憲性を判断すればよいのであって、その判断を国会ないし内閣に委ねる必要はない(6)。統治行為論以外にも、自律裁量論、合憲限定解釈などの憲法判断を行わないことを正当とする法理論を最高裁は採用している。さらに、ある程度体系化した法理論を用いて憲法判断を避けるものもあれば、恵庭事件などの具体的な事案において明らかに意図的に憲法判断を避けたケースもある(7)。
 憲法判断は行うものの合憲判決を導き出す方法では、近年の夫婦別姓に関するものがある。2015年に出された最高裁判決では、「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる」という説明から、夫婦同性の制度が合憲であるとした(8)。言うまでもなく、近代社会における社会の最小構成単位は個人であり、個々人の権利を擁護するために司法などの国家作用が存在する。そのため、家族という集団にとっての合理性のため、個々人の持つ権利を抑制することが認められないのは当然のことである。そして、日本は明治時代から自由民主主義を基調とする近代社会としての道を選んだのであり、日本国内においても人権が第一に尊重されるものである。よって、上記の判決は全く説得力を持たない。なお、同じように権利思想に整合しない論証によって合憲判決を出しているものとして、同性婚に関する大阪地裁判決を参照されたい(9)。
 こういった法理論が確立された背景には、内閣の判断に適合的な裁判官ないし内閣の判断に反する判決を出さないようにする最高裁の姿勢がある。以上のように、日本における司法消極主義は、自由民主主義が根幹に持つ理念を曲解または無視することで成り立っている側面があるのだ。

 次に、裁判官の独立(憲法76条3項)という観点から議論する。裁判官の独立原則とは、全ての裁判官は他の組織ないし個人から独立し、自らの良心のみによって判決を下すべきことを示した原則である。この原則は、現状の人事制度により十分に具体化されていない。最高裁の人事は内閣が大きな影響力を持つが、下級裁判所の人事は最高裁が決めることができるからだ。どのようにして現在の人事制度が下級裁判所の裁判官に影響するのか、三つの点から説明する。一つは、昇進というインセンティブが関係している。多くの人は、様々な理由から自らの職場環境にてより高い地位を望む。それは裁判官も例外ではない。他の職業では、仕事の質や量で能力が評価され、昇進の有無が決まるだろう。裁判官の場合は、最高裁の判決と同じような判断をしているかどうか、が重要な評価ポイントである。裁判官としてより高い地位に付くためには、最高裁の目に付くような判決を出してはいけないのだ。そのため、昇進を目指す裁判官にとっては、目の前の事案を公正に裁くことだけを目指せばよいのではなく、最高裁に嫌がられないような結論を出すことにも気を遣わないといけない。二つ目は、上告の考慮である。裁判当事者のどちらかが判決を不服に感じ、その事案が最高裁まで縺れ込んだ場合、結局は最高裁が出した判決が最終的な決定事項になるので、下級審において最高裁の判例と異なる結論を出す意義が弱まってしまうのだ。裁判に当たる検察や弁護士も、類似した事案の最高裁判決は当然に理解しているので、最高裁判決と異なり不利な結論が出された場合は、控訴・上告をしようとするだろう。もちろん、一度出された判決が世論に与える影響等を考慮すれば、全く意義が無いとは言えないが、当該事案についての最終的な結論を変えられる可能性は非常に低い。そして最後に、判例の拘束力である。判例は、その後の類似した事案についての判決を法的に拘束するものではない。しかし、司法権全体の整合性や法的安定性を考慮すると、安易に判例を覆すことはできず、覆す場合も説得的で詳細な説明が求められる。そのため、一度出された判決を覆すような判決を出すハードルは、日々激務をこなす裁判官にとって非常に高いのだ。
 以上のように、内閣が最高裁の人事を決めることができ、最高裁が下級裁判所の人事を決めることができる現在の状態は危険なものである。また、こういったプロセスが慣習に基づき、個々の判断基準も明確にされていないのでは、法治主義国家としての形式が守られていないと言わざるを得ない。国家作用の独立を定めるような重要な事項について明らかにされていない現状は、公正性や説明責任を果たすことができないというような規模の問題ではなく、国家運営を正常に行うことすら脅かす危険性を持つのである。権力を分散することで個々人の権利実現を目指す三権分立の原則に反し、ひいては司法が持つ弱者救済という機能をおろそかにする。そして、その影響は実社会で生き、内閣による政策実施の中で何かしらの不合理な被害を受けた個人に対する公正な救済を困難にする。


参考文献

(1)首相官邸司法制度改革推進本部顧問会議「最高裁裁判官の任命について」第5回、2002年。
https://lawcenter.ls.kagoshima-u.ac.jp/shihouseido_content/sihou_suishin/komon/dai5/5gijisidai.html

(2)佐藤駿丞「最高裁判所裁判官の選任に関する慣行の成立時期 -最高裁による内閣への意見・推薦慣行に注目して-」『政治経済学研究論集』11巻、2022年、41~61頁。
https://meiji.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10151&item_no=1&page_id=13&block_id=21

(3)「安倍政権「司法人事への介入」は過去にも、最高裁にも残るトラウマ」『DIAMOND online』2020年5月17日。
https://diamond.jp/articles/-/237511

(4)佐藤駿丞「内閣は最高裁判所裁判官の指名・任命をめぐる慣行を尊重してきたか -石田・村上・藤林・岡原長官時代を対象に-」『政治経済学研究論集』9巻、2021年、61~82頁。
https://meiji.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10141&item_no=1&page_id=13&block_id=21

(5)宮澤俊義「全訂日本国憲法」日本評論社、1978年、661頁。

(6)長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿「憲法判例百選Ⅱ[第7版]」有斐閣、2019年、412,413頁。

(7)長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿「憲法判例百選Ⅱ[第7版]」有斐閣、2019年、358,359頁。

(8)最高裁損害賠償請求事件平成27年12月16日民集第69巻8号2586頁。https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=85546

(9)大阪地裁損害賠償請求事件令和4年6月20日https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=91334


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