主題

他人の物語に接しては手に余る何かを感じていた───私が接することのできる物語は常に部分的に切り取られたものでしかなく、私が触れる物語はある一つの場面や章でしかありません。その小さな物語のために───そこに至るまでにどれだけの場面や章を経てきたのか、それは私には計り知れないものだと感じます。同じ言葉や些細な挙動の意味もその人が辿る物語によって多様であり深みも異なります。そうであるなら、この私にある人物が抱えている問題を───その物語の意味をどれだけ読み取れるだろうかと考えています。

    私はこれまで少なくない物語に接してきました。聖者や犯罪者、英雄、市民、神々、その他にも様々にあります。しかし私がどのような物語も受け入れ、共感を示してきたと言えば、それは嘘になります。それらの物語に対しては共感したり、場合によっては尊敬の念を抱いたりしたこともありましたが、全く自分の関心の外に意図して置いたままにしている物語も数多くあります。私は物語とは単に共感するためのものではないことを認識しているつもりです。別にその物語に共感することができなくとも、そもそもその物語が共感を求めない場合もあるからです。また私が共感の念を抱いていたとしても、それは本当の意味にはそぐわない場合もあると思います。物語に接する時には、接する私自身にもその物語に触れるに至るまでの物語があり、その間には容易に埋めることが難しい溝があるのだと思います。物語に触れては自らとの溝を感じ、それを飛び越えることの困難を私自身に思いました。しかし、それは私がその物語を見据えなければ得られなかった経験であり、その感覚自体は多様な物語に接することの豊かさの一つだと考えます。

   こうして物語について考えてみると、私は人それぞれに向き合う主題があるのだと気づきました。同じ問題を抱えているようでも違った様相を見せるように、人は自らの主題を追うのであり、人生という物語においては人は自らの主題に真摯であることを求められているのだと思います。私の人生においても多くの主題や命題が現れます。今ここで表現したとしても共感してもらえないだろうと思われる矮小な主題もあります。むしろ、私のこの文章も含め、周囲にとっては取るに足らない主題しかないと言っても過言ではありません。ですが私が多くの物語に触れて分かったこと───確かに理解できたことと言えば、小さなことしかありません。それは自分以外にはどうでも良いと思われる主題ほど自らが大切にしなければならない───自分自身がその主題を膨らませなければならないということです。

    自己が単に矮小な主題に向き合っているようでも、その背後には自分の人生全体に関わる主題が潜んでいることもあると思います。日常の中で生活の細々とした悩み、多くの理解や共感を得ることが難しい専門的で特殊な課題に向き合うことがその人にとって、人生を真面目に生きるという主題の一部ならば、その小さな主題はどれだけ深く大切な主題であることでしょう。あるいは壮大な主題の物語には、実は小さな葛藤や悩みや喜びが隠れた真実の主題となっていることもあるかも知れません。

   私の人生は、と問われると、それは簡単には言葉で表現しにくいものです。ですが私は自分の内にある沢山の主題を身体いっぱい使って表現できるようでありたいです。それは私にとって難しいことですが、難しい物語にも向き合っていきたいです。

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