散文表現

いつの間にか月日は流れて、私が自分の思いを文章として発信し始めて、半年が過ぎました。他の人にとって、半年という、この時間がどれだけの意味をもつかはわかりませんが、私は、自らが何らかの物事を継続して行うことの喜びや充実を感じているとともに、もうそれだけの時間が経ってしまったのかと驚く思いです。時の巡りは、それに気づいた時には、いつでも自分の手の内にはないということを身を以て感じ、恐怖の念すら抱いています。


これまで私はいくつかのまとまった随想を公にしてきました。思い返せば、自分の文章を投稿し始めたころ、私はただ自分の文章を発表して、それを読み、自己批評していければ良いと考えていました。その思いは現在に至っても変わりませんが、自らの自由な意志で、挫折することなく記事を投稿し続けられてきたのは、自分以外に私の文章に目をかけてくださる方がいたからであり、ひいては自分以外に私に関心を持ってくださる他者の存在があったからこそなのだと思っています。


私は、自分の書いた文章が他の人のそれと同じようなところに置かれることによって、自分の文章の意味について、言葉との接し方や距離の取り方などについて、実際のこととして考えさせられるようになりました。私が自ら文章を書き、公にすることによって、他人が読み、そうなることによって、私自身も無視できない他人の視線を感じ、他人の書いたり、読んだりする文章への関心が以前より増しました。そして、それが翻って、私の精神的な豊かさに結びついているのだと感慨を深められるようになりました。他人の文章を読み、自分の文章を発信している私が自らの立場や環境などを振り返ると、こうして言葉の自由が認められていて、思ったことをのびのびと表現できる場があるということに感謝の気持ちを覚えます。


この世界には様々な言葉があり、その数だけ固有の世界観があると私は思います。それは必ずしも喜ばしいことばかりではなく、互いに反発したり、排斥したりする世界を意味することもあり、痛ましい争いを激しくさせる場合もあります。世界は言葉で溢れていますが、多様な世界観や価値観などを認めない地域においては、言葉の自由がありません。その自由を認めることがそのまま、その地域の世界を脅かすことだと捉えられているからですが、それは裏を返せば、言葉がとても大きな力や影響を持っていると、認められているからこそなのではないでしょうか。そのような地域の人と比べ、私には自分なりにこうして言葉について考えることができ、その思いを発信することが許されています。それは当たり前のように感じられますが、それが認められていない世界のことを考えると、とても有難いものなのだと思います。さらに私の属している今の時代においては電脳世界も発展していて、私も含め多くの人が自分の思いを言葉にして発信しやすくなりました。それにしたがって受け取る側も多様な言葉に気軽に接することができるようになりました。私はこのような状況を喜ばしいことだと考え、自らもその世界に埋没するように接したいと望む者です。

 
私はこの世界の言葉の氾濫において、散文表現の豊かさを感じています。散文表現には多くの種類があります。単なる独白や精緻な論文、説明、他愛もない挨拶、その他にも沢山あると思います。散文とは何の取り留めもない言葉の羅列であると考えることもできますが、それを徹底すれば、一つの表現にもなり得るというところに私は散文表現の魅力を感じます。もちろん教養深い人の散文は読みやすく、多くの知識の宝庫ですが、たとえ教養がなく、韻律や論理的な秩序が強く意識されなくとも、あるいは、それが醜い愚痴のようなものであったとしても、その人の思いのままに繰り出される言葉には独特の勢いや迫力があると感じます。電脳世界においては散弾銃のように繰り出される、この種の言葉を目にすることが少なからずありますが、私の場合はそういったものに接しては心にどこか引っ掛かって、目を逸らすことのできない感じを得ることがあります。それらには笑いや痛み、喜びや悲しみなど私の感情を掻き回される力があります。


言葉の力はときに強く、思いもよらない方向へと暴れていってしまう経験があります。私がそれを意識しておらず、自覚がなくとも、言葉にはそれだけの力があるのだと思います。言葉は物心ついた人であれば、ほぼ全ての人が何の気なしに扱えるものですが、同時に、言葉の力とは、それを発する自分自身が言葉について学ぼうとしなければ、事故を起こしてしまうようなものなのだと思います。気軽に言葉に接することができる環境にあるからこそ、様々な言葉を読み、気に掛けながら、これからも私は自分の文章表現を続けたい、そのように考えています。それが自分の言葉を書き、読むということだと考えています。