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曲、絵、文章。

澤田空海理さんの「遺書」を聞いて数日が経った。

「遺書」についての受け答えも読んだ。

「あなたが好きだと言ってくれていた歌詞は、今ではあなたを傷つける道具になった。独りで生きるには困らないお金をあなたの歌で稼いでいる。」

曲、絵、文章。
いろいろな創作で、創作することとお金に変えることの葛藤を見ることがある。特にそれが、愛する何かに対してであればなおさら。
それが愛する何かを傷つけることになるのか。何かをすり減らすのか。純なもので無くしてしまうのか。それは様々だろう。

私は自分の創作について、強い願いを込めたことが正直に言うとこれまで無かったのだろうと思う。ただ、自分が美しいと思えるものを作りたかった。手元に留めておきたかった。それだけだった。

少し前に、太宰治の『女生徒』の、
「美しさに、内容なんてあってたまるものか。いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。」
というのに強く共感したことがあった。
美しさを語る言葉の中では、空白で空洞の自分を許したい。許してほしい。きっと私は、ずっとそう願っているのです。

そんな私だから、本気で身を削って何かを生み出す人の気持ちは到底理解できない。きっと、これからもできないと思う。
人が身を削って生んだものを、突き詰めて仕舞えば「何か、綺麗だな」の感覚だけで消費する自分がグロテスクだとも感じる。

「君のことを書いた歌を、君が歌っていた。僕より少しだけ音痴で、よほど血が通っていたんだ。」というところが、一番好きだった。

詩もさることながら、この方の声の力には毎度圧倒される。



恋人が自分のことを詩に書くのは、どんな感覚だろうか。あの人も書いていたとしたらどうだろう。

あの人はきっと、曲は創っても詩は書かないな。



「いい曲って、なんだろうか」

私にはよくわからない。
いい曲も、いい絵も、いい文章も。
「私にとって」美しいか、ただそれだけが分かる。いや、分かっているつもりなだけだ。それすらも本当はよく分かっていないのかもしれないけれど。

私もあの人のことを描きたいし、書きたい。
その想いがいつか、美しさに変わればいいと思う。

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