今日の一福
2024/03/16
『これはわたしの、わたしによる、わたしのためのごはんである。
夫不在の夜のたのしみ。
娘でも妻でも嫁でもない。
ほかの何者でもないわたし自身を、この世から決して抹殺させないために自らに捧ぐ自由意志と、それに対する至上の敬意のあらわれである』
「そして固い決意である!」
―――と、かの有名なリンカン大統領が演説したとかしないとかいう事実は当然ながらございませんので、悪しからず。
しかし冗談ではない。本気も本気。マジでガチよ。こればかりは神さまにだって譲れないのだ。ましてや相手はただの夫。そのためだけに、わたしはわたしを殺さない。裏切らない。ウソはつかない。それがわたしの誠心誠意で愛情だ。
たとえば三日三晩、辛味三昧でも悪意はない。悪気もない。愛情がどこにあるのかはわからない。ただ素直なだけ。
つまりわたしはカレーライスが食べたかった。豚キムチもおいしかった。チゲ鍋最高。つぎ担々麺いっとこか。
なんてことを定期的にくり返したある日のある夜、何気なしに夫を見たらば鬼の滝汗。白目も血走る。火を噴きそうな有様だった。それがぽつりと、こう言った。
「辛味って、痛覚なんだってよ…」
たえている。
このひとめっちゃ耐えている。
日に3度しかない食事のうちの貴重な1食が地獄の獄門。息も絶え絶えで今にも消えそう。まさに風前のともし火を見るようだった。
(こんな不幸があってよいのだろうか)
いいやよくない。さすがにさすがよ。お気の毒すぐるという憐れをもよおし、妻は妻なりに配慮をおぼえた。
いっしょの時は、夫寄り気味。マヨネーズ大サービス。どんだけポンプしてもかまわない。辛味は控えめ。スパイスほどほど。塩分つよめ。卵焼きはハチミツ入りで。牛乳は特濃絶対。バナナにヨーグルトはかけてはならない。シナモンなどもっての外。納豆は刻んではならない。梅干しは母ちゃんお手製でなくては見向きもしない等等等等。
ただ「ごぼうがかたい」と言われたときばかりは、つつしんで黙殺させていただいた。それがええんや。歯ごたえたのしめ。つまんないこと言うんじゃないよと、多少は妻の感度次第だが、こういうところ、夫は変に食い下がってくる。
「繊維が歯にはさまってさぁ」
歯ぁ磨け。
それ以外はバランス上々。夫婦和合。家庭円満。わっしょいわっしょい。
ただそればっかりじゃあ、わたしはわたしをたのしめないのよ。
よって冒頭、夫不在の夜に戻る。
これぞわたし特製、わたし仕様だ。わたしがわたしだ。誰でもないわたしだけのためにあつらえた超贅沢だ。
それは甘めのお醤油。からのオンザ白飯。あとでバター。はいもう死んじゃう。
赤味噌だって使っちゃうんだ。この赤というより黒に近いコクの海にひたひたに浸かってあったまるんだ。喉がじわじわ痛むくらいに。はいはい死ねる。
ほうれん草のおひたしだって、そんな死ぬほど水切りしない。先に舌が水でうるおってくれる方が、あとからくる菜のやわらかさが殊にうれしい。茎はシャキシャキ。耳がよろこぶ。そこでピッとくる生姜の辛味に身が引き締まるから、もうずっとこのまま噛んでいたい。死ぬ死ぬもう死ぬ。
ああもったいない、ご馳走さまよ。
この生きるよろこびよ。
生かされるこの味わいよ。
この極楽たまらないね。まだまだ死ねない。ぐいぐい生きちゃう。
お疲れわたし。またあした。
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