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誰でもない、私の体と心を整えることの大切さ

私にとって必要な本との出会い

Instagramを見ていたときに、
フォローしている方の投稿である本が紹介されていた。

帯に書いてある。
「これでいいや」で選ばないこと。
「実は好きじゃない」を放置しないこと。

その言葉にハッとした。
読みたい、と思ってすぐにネットで購入した。

いつもなら次出かける時に本屋に寄って探そうとする。
余程楽しみにしていた好きな作家の新作すらも、
できたら店舗に出向いて手にとって買いたい性分。
しかしそこそこ田舎に住んでいるので、
買いたい本が決まっていてそれが小さな本屋にないなら
ネットに頼るしかないので利用することはある。
でも、その最終手段を速攻発動してしまったくらい、
この本を欲しい、と強く思った。

届いてからすぐ包装紙を開け、表紙を撫でた。
質感もいい。

「生活改善運動」

何か、じん、と心に広がるものがある。
ようやく手に入れられる、と確信した。
私の理想の生活を。

自分自身を蔑ろにしてきた過去

どうしてこんなにも「生活改善運動」という言葉に惹かれたか。
長くなってしまうが、自分の過去にふれる。
本と出会うよりずっとずっと前。

私は10代後半から20代後半に差し掛かるくらいまでの期間、
人に語れるような生活を送ってこなかった。

誰しもそんな一面があると思う。
例えばそれが、語るまでもない普遍的な生活だから。
もしくはその逆。
聞いた相手の気分を害してしまうような生活、
後悔している、ひどく恥ずかしい生活だったから。
私の場合は言うまでもない。後者だ。

語れない人というのは、自分を取り巻く大切な人たちのことだ。
こんな線の引き方は良くないとわかった上で言うが、
初めて会って今日別れる赤の他人や
SNSを介した先にいる顔の知らない人、
そんな第三者にならいくらでも話せる。
「第三者をなんやと思ってるん」と言われれば正に。
無下にしているわけじゃなくて身近にいる優しい人たちに、
必要以上に心配をかけたくない思いがある。
と言うのも建前で、ただ、格好悪い自分を知られたくない。
つまらない見栄が邪魔する。

だから周囲の自分をよく知る人物には言えなかった。
仕事や付き合いで外出するときは平気なふりをして、
家で一人の時は大半をベッドの上だけで絶望しながら過ごした。
かろうじて部屋が目に見えて散らかるの避けたくて、
ものはほとんど置いていなかったが
部屋の四隅には灰色の綿埃がいつも溜まっていた。

見渡せば、百均で揃えた食器やゴミ箱。調理器具のないキッチン。
ホームセンターで買った千円の白いカラーボックス。
カビの生えかけたベッドの床板。洗ったことのないカーテン。
針金のハンガーにかかるファストファッションで買った服。
似合っているのかわからないデパコス。

仕事や飲み会後に力尽きたら、硬い床に寝転んだ。
自分が住む部屋なんてまじまじ見ることなんてない。
ただ生活するのに好き、とか、心地よさ、なんて、
針の先ほども考えたことはなかった。

◇ ◇ ◇

「入院しないと治すことは難しいです」
このままでは体が壊れてしまう、と
僅かに残った理性が叫んでいたので、病院に行ったらそう言われた。

大きいけど田舎にある病院だった。
車を持っていなかったら電車を乗り継いで、そこから徒歩だった。
到着するまで、足元ばかり見てぐずぐず歩いた。いつでも逃げれるように。
それくらい怖かったけど、行けばどうにかしてくれると期待していた。
医師にしどろもどろになりながら現状を話したあと、
そう言われて、診療はすぐに終わった。

その日は快晴だった。
帰り道に気づいた。
来た道を戻りながら空を見上げて、少し泣いた。
心はとっくに壊れてしまっていたらしい。

これまでに病院に行ったことはあったが、
ここまで深刻に言われたのは初めてだった。

入院、はしたくない。じゃあどうすれば。
自分で変わらなければ。
他人の手を借りてでも、変えなければ。

その夜、気が変わらないうちに、
親に電話して仕事を辞めてそっちに帰りたいと言った。
次の仕事も決まってないのにと漏らす母に
すべてを明かすことはやっぱりできなかったが、
なんとかするから、と説得して私は今の生活を無理に断ち切った。

規則正しい、他人の生活に合わせる

実家に戻ってきて「一人暮らしに向いていなかったか」と
自分を責めてしまうことが度々あった。
けれど、今振り返ればたぶんそういうことじゃない気がする。
一人だろうが二人、複数人と生活していようが、
ダメになる時はダメになる。
私がこんな生活をするようになった片鱗は、
まだ家族と住んでいる時からあった。
(ずっと言ってるけどそれがどんなことかはまた別の話)
だから戻っただけで変わることができると思うなと、
過剰な期待で傷つかないように言い聞かせていた。

初めのうちは何をするでもなかったが、
住む環境を変えたことは大きな好機となった。
実家は元々緑の多い田舎にあったのだが、戻ってすぐ
父方の祖母と暮らすためにさらに山奥へ引っ越すことになった。
実家がより不便な場所へ移動したのだ。

良いようにいえば、まるでジブリの世界。
いつどこで乙事主おっことぬしが出てきてもおかしくない。
実際に祖母が管理する畑を狸や猪が荒らすことがあると聞いて、
とんでもないところに来た…と落胆した。

都市部とは言えないが車がなくても生きていける場所から、
電波すら繋がるか危うい田舎に来た。(幸い父がすぐにWi-Fi工事はした)

周囲に人より動物が多く住むような世界で、
両親と祖母の生活は、恐ろしく規則正しかった。

平日も休日も変わらず、朝は決まった時間に起床する。
温かい緑茶を飲んで、炊き立てのご飯と味噌汁、お漬物で朝ごはん。
それから掃除洗濯。天気が良ければ布団を干す、玄関を掃く。
雨が降れば部屋で休み、祖母は野菜畑を見に行く。昼ごはんを食べる。
午後のお茶を入れたら夕飯の準備。何品も作る。18時過ぎには食べ始める。
浴槽に熱い湯を張り、風呂にゆっくり浸かる。
でたら少しテレビを見て、翌朝のためにお米を研ぎ、寝床につく。

季節によって、母と祖母は梅や味噌、天然の保存食を作っていた。
父は仕事のない休日は朝早くに農作業や草刈りに出かけた。
時々父は近所に飲みにでたり、母は友人と食事に行ったりする。
家で各々がゆっくりとした時間を過ごすこともあったが
基本的な生活リズムは崩れることはなかった。

両親って、こんなきっちり生活してたんだ。
離れて戻ってみて、生き生きしている姿に驚いた。
子どもの手が離れてというのもあるかもしれないけど。

実家の裏手に桜の木がある。あまり大きくはないが、
時季がくれば枝いっぱいに薄紅色の花びらをつける。
その下で時計を気にせず、自分が大学生になる前に拾ってきた猫の
すっかり年老いた背を撫でていた、ある午後の時間。
ふと「贅沢」という言葉の意味を考えた。
両親、祖母の生活リズムに便乗してみようか。
そんな結論に至った。
冬に前職を辞めてから、ちょうど春が来た頃だった。

とりあえず、意識的に生活を合わせみた。
起きる時刻、寝る時刻、食べるもの。

余った時間に就活とかしなきゃいけないこと以外は、
家族がしていることを手伝うか、家族の目が届く範囲で本を読んだ。
一人になりたくてもならないように気をつけた。
誰かがいる空間で自分で自分を見張るように執拗に。

変えるのは思考ではなくて、行動だという話は本当だった。

浮腫んだ体が徐々に軽くなり、わかりやすく肌艶が良くなった。
眠れなかった夜が減っていき。食べ物は濃くなくても味がするように。
本や映画から貪るように感動を求めることがなくなり、
ごく普通に楽しめて、胸に響けば自然と泣けるようになってきた。
時折不安にかられ、衝動的に一人暮らし時の過ちが顔を出したけれど、
頻度は明らかに減っていった。

大袈裟だけど、普通の人に近づいた気がした。

他人に合わせないと知ることができなかった、生活を整える重要さ。
健康な体には健康な心がついてくる。

遅すぎじゃん。
やっとそう言えるけど、たぶんこれが最速だったのだろう。
そう思わないと私の足はまた止まってしまう。

丁寧な暮らしは届かない理想だろうか

やがて転職することができて、職場で知り合った人と結婚した。
たまにその現実に自分で驚く。

新生活、わかりやすくワクワクしっぱなしだった。
パートナーには申し訳ないが「二人での生活が始まる!」より
「私の城をつくる!」という感覚。
ありがたいことに、パートナーにはインテリアのこだわりが
まったくなかったので、城づくりは私の手に委ねられた。

とはいえ、初期費用はまぁかかる。
互いに実家にいたので家電、生活用品すべてにおいてかかる。
一から欲しいものを選べることは私的に良かったが、
とりあえず最低限生活するために必要なものを揃えなければならない。
ワクワクしながら、予算との睨めっこで妥協することはしばしばあった。

引っ越しを済ませてとりあえずの生活が始まれば、
城づくり以外にも考えなければいけないことが山積みだった。
両家、職場への挨拶、顔合わせ、籍を入れてからの諸々の手続き。
コロナ禍だったので結婚式はどうしようかと悩んだが、
両家の親とも楽しみにしている姿を目にしていたので
このご時世だが周りを気にしつつも強行突破した。
やってしまえば後悔はなく、むしろいい思い出になった。

国内で新婚旅行を終えて、普段の生活が戻ってきた時、
少し燃え尽き症候群に似たものがあった。
自分の中の「籍を入れて結婚式を挙げて新婚旅行をする」という
テンプレを自分なりになぞって満足感、達成感はあった。
けれど、そのレールの先は、プツッと途切れている。
次は?と耳元で誰かが囁く。

次に私がしたいことは、なんだろう。

ちょうどその時期に職場が変わった。
責任から逃れられない立ち位置に、ひどく悩まされた。
平日は疲れ果ててそれでも愚痴を吐き、
休日にまとめて家事をし、最低限部屋が荒れないように心がけた。

特に平日は仕事中心に効率よく動けるように立ち振る舞い、
反動で休日は夜は遅くまで起きてアルコールを飲むことが増えた。

つまらない、ただ日々が過ぎていく。
時間は有限なのに、スマホか動画配信サービスをみて埋めてしまう。
目先の楽しいことを小さな目標として生きていても、
すぐに次は?が頭に浮かんで焦ってしまう。

いつしか日常は、楽しいイベントを迎えるために、
無感情に消費していくだけのものになっていた。

ある日の平日休み、いつものようにタラタラとYouTubeを見ていたら、
ふとある配信者の動画が目に止まった。
それは「Vlog」。ライフスタイル、日常の何気ない様子を撮影した動画。
私が見たその動画では配信者の顔ではなくその手元が映り、
手入れの行き届いた部屋や食生活、掃除、持ち物、メイク、
ファッションなどを自然体に撮ってあった。

「丁寧な暮らし」ってやつか。
いいよな。
そう思ってしまった。

揶揄しているつもりはない。違う、羨ましい。
まるで遠い外国の美しい景色を見せられているような、
そんな気持ちになる。
一見地味に見えて、キラキラした丁寧な暮らし。
これは憧れ。自分とはかけ離れた暮らし。

真っ白な洗い立てのシーツ。栄養満点な朝食。
観葉植物の緑。優しく灯る間接照明、キャンドルの橙。
テレビではなくスクリーンに映される古い映画。
愛着のあるビンテージの家具。
生けられた花の色とりどり。

流れる映像をぼんやり見ながら、
少し、実家での生活を思い出していた。

祖母が毎朝、仏壇に置く花瓶の水を変えていた。
生けてあるのは、野菜畑の傍に咲いていた名前も知らない白い花。
そのみずみずしさが、妙によみがえる。

「あ」
ふと、画面に見たことのある家電が目に入った。ケトル。
動画では白い。私は色違いの黒を持ってる。
友人が結婚祝いでくれた、バルミューダのケトル。

動画の中の人物は携帯の自動ハンドミルでコーヒー豆をひく。
ケトルでお湯を沸かし、コーヒーサーバーにドリッパーをセットして、
引いた豆にゆっくりとした動作でお湯を注ぐ。

私はいつの間にか台所に立ってサーバーとドリッパーを探していた。
確か引っ越したての時に、ハンドドリップに憧れて一式買った気がする。
その時にとんでもなく不味い黒いお湯ができただけだったから、
使ったのは一度きり、以来安いコーヒーメーカーに頼りっきりだった。

見つけた。埃をかぶっているけど、洗えば使える。
次にAmazonでコーヒーミルを検索した。
さっき動画で見たのと同じの、あった。そこまで高額ではない。
数十分悩んだが、ポチッと購入した。
あとは明日、仕事帰りにスタバで豆を買おう。
ケトルはあるからきっと、私にもできる。

私にもできる、やってみたい。
思い立って行動しつつも、感情が前を走っているような感覚があった。
画面の向こうの丁寧な暮らしができる、なんてこと思ってない。
でも、同じものを持っている。少しでも手が届くんだ。
そう思うと、久々に心がワクワクしてきた。

忘れていた城づくり、再考しよう。

模倣することで理想に近づく

思えば、人間らしい生活を取り戻したのも
両親の生活を真似ることから始めた。

話は逸れるが、私はライターの石井ゆかりさんの星占いが好きだ。
各著書で石井さんが星座の特徴を語る中、
私が属する蟹座の特徴を「模倣の才能」とあげている。
良いと思ったものを完全にコピーするのではなく参考にしながら、
その中で自分らしさを構築していくのが得意、らしい。
模倣の才能あるぜ!と大きな顔を無論するわけじゃないが、
妙に腑に落ちるところがあって読んだ時に嬉しくなった。

スラスラ言葉が出てくる時、物語が思いつく時は決まって、
私は何か出来上がった媒体の影響を強く受けていると思う。
真っ白い紙を渡されて「好きに描いてねー」と言われると
どうしていいかわからない。
だけど、目の前に対象物を置かれて、
「これを描いてね、どんな技法を使ってもいいよ」となると
途端に、楽しさが勝つのだ。
そんな自分で気づかなかった表現方法を、
石井さんが言葉として明らかにしてくれた。
星占い、おすすめです。

そして、私はYouTubeで見るVlogにわかりやすく模倣した。

気に入らない食器や服、使いかけてほったらかしの化粧品を捨てたり、
部屋を隅々まで掃除をして、結婚式で使った雑貨を見えるところに飾った。
手頃な観葉植物を手にいれ、日々水やりをするようにしたり、
余裕がある週末は花屋で切り花を買ってみたりした。
食生活はどうしても仕事に左右されるので、毎日持っていくお弁当だけでも
本や動画を頼りに時間をとって週末作りおきし、盛り付けにこだわった。
コーヒーは正しい淹れ方を参考に、毎朝ハンドドリップするようになった。

元々動画はゲーム実況ばかり見ていたので、
暮らしにフォーカスを当てたVlogは新鮮で楽しかった。
新しいものを買い足すのはお財布の中身によるけど、
しなければいけない家事を丁寧に、ちょっと意識してみるだけで
生活にハリが出てきた気がする。
凝り性な性格が後押しし、みるみる生活は変わっていった。

パートナーに急にどうしたのか、と初めはからかわれたけど、
部屋を整理整頓したり、少し時間をかけて掃除して綺麗にしたり、
毎日のお弁当の冷食が減ったことは相手にもプラスのことなので
とやかく言われることは特になかった。
ただ部屋に植物が続々と増え始めたときは「森にする気?」と
戸惑っていたが。

共に生活する上でそこは心がけた。
私がしたい生活と、パートナーの心地いい生活は
必ずしもイコールではない。

部屋の大きさは変えられないので生活を分離することはできないし、
完全に分離したいと思っていたわけじゃない。
だから理想を押し付けないように。
掃除だって食事だって私がしたいからする、強制しない。
朝は早く目が覚めても、相手が起きないように音を立てないように。
ものを捨てる時、増やす時は必ず相談をするように。

どんなにインテリアに関心はなくても、
一緒に暮らす人がリラックスできる空間でなければいけない。

ある日、狭くなるから実家から持ってきていなかった大量の本を
どうしても部屋に置きたくなった。そのためには本棚がいる。
大きな家具なのでパートナーに言うと渋い顔をされた。
そこから数日をかけて本棚があるといかに生活が豊かになるか、
私はあの手この手でプレゼンを行い、最終的に彼は折れた。
本当は彼の漫画も並べるはずだった棚は、
あっという間に私の本で埋まり、彼は不満を言いつつ笑っていた。
まぁそれも悪くないって。寛大な心に感謝である。

休日の朝、自分が美味しいと思うコーヒーを
豆から淹れられる生活。
花瓶に生けた季節の花、それが視界にある生活。

理想に近づくたび、もっと、もっと。
歯止めが効かなくなる。

私自身の心地よさの追求、食の解放

模倣には限界がある。

動画の世界をすべてぴったり自分の生活に当てはめるのは、何か違う。
まあ、完全に当てはめているわけじゃないのだけれど。
参考にしていた丁寧な暮らしには、当然だが配信者の特徴がある。
和室だったりマンションだったり、主に食生活に重きを置いていたり、
着る服や部屋に流す音楽までこだわっていたり。

真似ることに限界がある、と言うことじゃなくて、
私は私の特徴を見出したい欲が出てきた。
あの人がしてるのはあの人の生活であって、私のものじゃない。
似たような生活をしてきて心地いいけど、
本当にこのまま続けていていいだろうか。
無理していないか?

漠然とそんなことを思い始めた頃だった。
ようやく、著書に出会うのである。(前置き長すぎな件)

再び、帯の文を引用させていただく。

「これでいいや」で選ばないこと。
「実は好きじゃない」を放置しないこと。

まさにだ。
動画を見て自分ができそうな「これでいいや」を選び、
家事や習慣、「実は好きじゃない」ことをしていないか。

本を手にしてすぐに開いたページにこんな言葉が書いてあった。
著書のタイトルにもなっている「生活改善運動」とは何か。

それは、自分にとっての心地よさ、快・不快を判別し、より幸福なほうにむけて生活の諸側面を改善していく自主的で内発的な運動だ。
 タオルやシーツ、ゴミ箱、セーター、靴、家具など具体的なモノから、住居や仕事、人間関係など様々なレベルで、自分にとっての幸せが何なのかを探り、幸せに生活していくための具体的な行動をとっていく。
…自分なりに実践してきてみてわかった。生活を改善するということは、単にクオリティ・オブ・ライフを高めていくだけにはとどまらない。ある種の自己尊厳に関わるものであると気づき始めた。

私の生活改善運動/安達茉莉子 10〜11頁抜粋

ガンっ。
冒頭の数頁を読んで、殴られたような衝撃が走った。

生活の中心には自分がいる。
それを整えようが雑にしようが、構わない。自分に返ってくるだけ。
心も体も健康でいるために、ある程度は規則正しく整える必要はある。

じゃあ、心も体も幸福でいるためには?

規則正しいだけではダメだ。模倣ではダメなのだ。
自分という人間だけが知る心地よさを追求しなければならない。

◇ ◇ ◇

それに気づかされ新しい気持ちで、本を読み進めた。
著者である安達さんが自分なりに、とても丁寧に、
ひとつひとつ生活のための選択をする心情が描かれている。
家を借りる地域、ベッド、本棚、机、一着の服…

特に読んでいて唸ったのは、「食生活編」だ。

“食べることは生きること”
私が今よりもっと偏食だった頃、この言葉は何よりプレッシャーだった。
安達さんも、「私の場合、精神の余裕は食に出る」と書いていた。
私はとても食べるのが早くて、小さい頃それをからかわれたことがあった。
以来人と食事をする時に緊張するので、あまり他人と食卓は囲いたくない。
だからといって、ひとりで食事をするときはもっと酷かった。
食事を作るのには時間がかかるのに、食べるのは一瞬。そして片付ける。
料理なんて生産性の悪さしか感じない。買えばいい。
コンビニには何でもあるし、太りすぎない程度にカロリーを摂取すれば。
食を楽しむ、という概念は私には皆無だった。

コンプレックスは過去の体験から生じている。
それを勝る体験がなければ解消されない。

その私が生活を共にする人ができて台所に立ち始めた時、
ほんの少しずつ思考は変わっていった。

身近にいる両親と、パートナーは食をとても楽しむ人だった。

両親は料理にいつも違う食材を使い、長い時間をかけて手作りするし、
嗜好品であっても適当なお皿にそれをうつして必ずお茶を淹れた。
パートナーは袋ラーメン作れば冷蔵庫に眠る野菜を切っていれるし、
日頃から低血糖になるといけないからと食を抜くことはなかった。
そして週末には美味しいものをと、よく外食に出かけた。

食べられればいい家にあるものを齧れれば何でも、と思っていた私は
食生活を見直したい一心から彼らの姿を見て、ふと気づく。
私、あんなに丁寧にコーヒーは淹れるようになったのに、
食生活は変わらずぞんざいだな。
生産性を求めるなら、コーヒーメーカーでいいのに。

その疑問の答えは、本にあった。

 私が死んでもレシピは残ると小林カツ代さんは言った。そのように、ひとの面影は食事のなかに残る。料理は私の人格をつくっている。誰かが言ったこと、誰かの姿、一緒につくる時間、一緒に話した時間、そのときに流れていた空気、おいしかった記憶。私はきっと、そういうものを食べて生きてきたのだ。

私の生活改善運動/安達茉莉子 122頁抜粋

過去、ひとりでした食事は、まるで美味しくなかった。
美味しいなんて思う余地は少しもなかった。

コンビニのパックに入ったままのパスタ。割り箸。
移動する電車の中で紙パックの野菜ジュース。電子レンジのあたため機能。
漫画を読みながら菓子パン。家でもペットボトルの水をそのまま。

その時の周りの空気が美味しいかどうかなんて、
当然わかりきっている。

食事は、そのものの美味しさに左右されるのではない。
「美味しく」食べることが重要なのだ。

料理人じゃないから、そこまで真剣にならなくてもいい。
料理に合わせて器を選んだり、コップを置くときコースターを置いたり、
季節の野菜をどう味付けするのか悩んだり。
外食するときは何をどこで食べたいか、ちゃんと体と心に聞く。

コーヒーを淹れるきっかけは、格好つけてというのはあっただろう。
でもいつの間にか豆を挽く時間やお湯を注いだ時の香り、
コーヒーの滴が落ちていく音に癒されている。
そしてできた一杯を飲むときに、その癒しも一緒に口に運んでいる。

ああ、「味わう」ってそういう意味なのか。

それに気づいてやっと、
食を楽しむことに一歩だけ近づけたように思う。

本を選ぶように「生活」を選ぶ

さて、食の大切さに納得したところで、
私の生活改善運動を始めるにはどうしよう。
著書にある安達さんの運動を真似したら今までと同じだ。
私が好きなもの、幸せ感じるもの、満たされるもの…

難しい。
「これでいいや」と選ばないでいることは、
「実は好きじゃない」ことを見極めるのは、
相当自分を知らないといけないのではと思い、嫌になる。
自分の内側に目をやろうとしても、つい背けてしまう。
重ねた自己犠牲や、他人の模倣で塗り固められた私の中身は、
到底つまらないものだとまだ思っている節がある。

うーんと考えていると、
不意に高校時代が脳裏をよぎった。

友人にはおしゃれな子が多かった。
鋭い嗅覚でいち早く流行を嗅ぎ分け、
持ち物や言動に至るまで洗練され輝いていた彼女たち。
私はありがたいことに溢れでたセンスの良さと可愛さに
触れさせていただくという恩恵を受けていた(?)

けれど、それとは全く別の雰囲気を醸し出す子もいた。
筆箱、ポーチ、仕草ひとつでもその人らしさを持つ子。

流行っているから、じゃない。生半可な「好き」じゃない。
本能で選び抜いたものだけを身につけている自負。
ひとつひとつがさりげなく、彼女自身を主張しているように見せる。

彼女よりも、そのものたちは幸せだろうな、と思った。
彼女のために生まれてきましたと言っても過言じゃない。
似合うよりもずっと、素敵な空気までも身に纏っている子。

それも一種の憧れだなぁ、と思い、
それこそが私の目指す生活改善運動である。

部屋、服、身につけるものを「らしく」したい。
無論すぐに結果が出るものではなくて、
だんだんと手や体に馴染んでいくものを選びたい。
そのための選び方、その基準は、もう真似したくない。

ずっと好きなもの。
私の持つ感覚にだけ、委ねても大丈夫なもの。

そうだ。
あるじゃないか。

それだけは唯一、
死んだように生きたあの日々の中でさえ
守り抜いたもの。

本だ。

本を選ぶとき、私は自分の感覚しか信じていない。
もちろん話題の本や芥川賞、本屋大賞も読む。

だけど、本屋を歩きながら棚を見渡して、
気になったタイトルに手をかけて引き抜くとき。
平積みされた本の装丁が好みなとき。
頁をめくり、冒頭から入り込めたとき。
ふと見た最後の一行が引っかかったとき。

それからレジに連れていく間、
誰の声も私には届いていない。

「本は教養深めるには安価だ」と聞いたことがあるが、
安価と思うのは人それぞれだ。

本は高いと思う。
価値があるものとして。

できれば言い方は良くないけど、もとをとりたい。
つまらないと思う本は避けたい。
読んで深く深くその世界に入り込みたい。
感動を見つけたい。
もしかするとそれは、一度や二度読むだけじゃ
見つからないかもしれない。

それに、一生に読める本は限りがある。
その中で胸を震わす本は、一体何冊あるだろう。
手元にいつまでも残るのは。
年老いても、そばに置いておきたいと思えるのは。

同じなんだ。
私にとって、生活を豊かにするものの選び方は、
「本を選ぶ」それと同じようにすればいい。

運命を感じる一冊は、簡単ではない。

なんか読みたい!本屋を梯子して探しても見つからなかったりする。
何気なく立ち寄ったTSUTAYAに何冊も気になる本が出てきたりもする。

かつて、生活するためのものを買うときに店舗でもネットでも
「うーん使えそうだからいいや」と購入することがあった。
本屋で「うーんまぁこの本でいいや」と選ぶことはないのに。

あの感覚か。そうか。

運命を感じる一点も、簡単に会えない。

家のリビングのソファに座っている今、振り返ると本棚がある。
私の本だけで埋め尽くされた本棚。
そこに並んでいるどれにもドッグイヤーがついていて、
どこがどれだけ好きなのか、私は語り尽くすことができる。
積読本に関して言えば、どこが気に入り手に入れたのかを。

そうやって、語れるものだけを選び抜くんだ。

いっぺんに変えてしまう必要はない。
長い時間をかけて、目にするもの、身につけるもの、
自分が思う物語を感じるものを焦らず選んでいく。

そう思ったら、終わらないワクワクが胸に浮上した。

背伸びしない、等身大の「私の生活改善運動」

それでも理想と真逆の日なんてザラにある。
仕事や家事に疲れて気力がない休日には、
ゲームしたりスマホ画面ばかり見たり、菓子パン食べたり。
でも不思議なことにそこまで罪悪感を感じないようになった。

模倣していたときは、もっと突き詰めて、ナーバスだった。
怠惰を許せている今は、これは心の寄り道なのだ言い訳している。
そして本当に自分が心地いいことに目を向けられるようになってからは、
多少の脱線は大したことじゃないのだと思う。

部屋に花がない日も増えた。
絶対に必要なものじゃない。
部屋が綺麗なことの方が大事。
飾りたい時に花屋によればいい。

料理したくないならいい。
出来合いの惣菜をお皿に盛り付けよう。
それも無理なら面白いテレビみて、
笑いながら食べればいい。

著書の中に、Yさんという人物が登場する。
安達さんの生活改善運動の師匠なんだそうな。

 Yさんに出会ったころの私は、幸せなほうを選ぶということに、いつもどこか罪悪感があった。いろんなことは自分が我慢すればいいと思っていたし、それで何も不満はないと思っていた。和をもって貴しとなす。自分が犠牲になることが尊いのだとどこかで思っていた。
 Yさんはそこに遠慮がなかった。自分は尊いので、ちゃんと適切なものを与えねばならぬと言わんばかりに、日々生活の改善を追求していた。

私の生活改善運動/安達茉莉子 212頁抜粋

Yさんの話が出るたびに、高校時代の彼女がよぎる。
彼女は、自分を裏切るような選択をしたことはないのだろうか。
生まれながらに自然と生活改善運動ができていたのか。
それとも安達さんや私のように、どこかで気づきが生まれたのか。

いずれにせよ、人生は選択の連続だ。
できたらその選択は絶対に楽しい、心地よい方がいいに決まってる。

それを知ったのは、今からでも決して遅くはないと思う。

 私は少しずつではあるが、自分で自分の生活をつくり始めていくようになった。自分が見て幸せになるものだけ残し、そうでないものは捨てる。つまらないことはやらない。好きじゃない場所には行かない。
 自分のことを好きになるなんてよくわからなくても、自分の生活を好きなものに変えていくことはできる。たとえ制約があっても、小さなことを変えるだけで思いがけないほどに流れは変わっていく。

私の生活改善運動/安達茉莉子 213頁

うん、遅すぎないよ。大丈夫だよ。

振り返る。
病院の帰り道、心許なく足を引きずっている、
私に言う。

あの日、仰いだ空の青さは目に焼きついている。
それを知らなければ、私、
まだ時間がかかったかもしれないから。

 幸せなほうへ行っていい。それには時間がかかるかもしない。労力はめんどくさいかもしれない。だけど、タイルを一枚だけでも磨いていくように、手が触れた箇所だけでも拭いていくように、少しずつでも手を入れていけば、必ず生活は全体として変わる。そんな生活が続いていき、やがて人生のトーンも変わっていく。

私の生活改善運動/安達茉莉子 213〜214頁

幸せになるほう、もう迷わないはず。
もしまたわからなくなったときは、この本を筆頭に、
私が好きで選び抜いてきた数々の本を開こう。
そうやって、私は私の心地よさや感動を見失わないようにする。
また、同じようにそれを感じるものに、舵を切れるように。

◇ ◇ ◇

全くこの長すぎる私の過去から今までを読んでくれた、
物好きな稀少な方に心から感謝する。
聞いてくれて、本当にありがとう。

きっとまた長々と綴ると思う。
好きなこと、好きなようにをダラダラと。
付き合ってくれると嬉しい。

そして、もし「生活改善運動」に興味があれば、
是が非でもこの本を読んでほしい。
あなたなりの心地よさ、その選択の仕方が、
どうか見つかりますように。

もし見つかったら大胆に、はたまたこっそり、
私に教えてくださいな。

そういえば、次は? の声、

いつの間にか聞こえなくなったよ。


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