見出し画像

短編小説 キズパワーパッド

   もう日が暮れかかっているというのに、引っ張って連れてこられたのは廃れたカラオケ店だった。
 暗くなるのが早くなったから、夏よりも帰宅が遅くなるとお母さんがうるさいなと思ったけど、掴まれた腕を振りほどくの気力はなかったから、なされるがままに店内に入る。彼女は気怠そうな店員相手に、私の腕を握る反対の手で差し出された受付の用紙に必要事項を書いていく。その強さは、さっきから少しも弱まることがない。
「じゃあ二時間で。延長する際はタブレットの延長ボタンか室内の電話でお知らせください」店員が言い終えないうちに、部屋番号が印刷されたバインダーをかっさらって、彼女は部屋に急いだ。いつもだったら一分一秒も無駄にしたくないから、私もそうするけど。
 部屋に入り、室内の照明を全てオフにする。BGMとマイクのボリュームを音の確認もせずに調節する。そして一旦部屋を出た。多分、ドリンクをとりに行ったんだろう、フリードリンク制にしていたから。曲を予約するためのタブレットの履歴欄を見ながら、長くため息を吐いた。教室を出て今まで、体のどこにこんなにたまってたのというくらい、長い長いため息だった。つい、息以外のものまで出てきそうで目を閉じた時、勢いよく扉が開いた。そこには、なみなみのメロンソーダが注がれたグラスを二つ抱えた彼女、不敵な笑みを浮かべている。
「感傷的になるのは、まだはやいっての」
「はぁ。何の話よ」その目ににすべてを見透かされている気がして、ついさっき溢れそうになったものが急速に込み上げる。
「強がんなくていいよ。ぱあっといくよ、ほら」
 マイクを突きつけられ、反射的に手に取る。彼女はタブレットをすばやく操作し、一曲予約した。画面に曲のタイトルが表示された時、私は目を疑った。慌ててイントロが流れる前に中止ボタンを押す。
「ちょっと何すんの!」マイクを通したの彼女の、エコーのかかった声が室内に響く。
「それはこっちの台詞。急にカラオケまで連れてきてさ、何かと思えば何歌おうとしてんの、信じられないわ!」
「何ってこの曲好きじゃん」
「好きだけど、今そんな気分じゃないの。そもそもカラオケって気分でもないの!」
 立ち上がって自分のリュックに手をかけた。そこに彼女の手が伸びて、それを制した。さっき思わず大きな声が出て自分自身で驚いたけど、親友は少しも怯んでなかった。真っ直ぐにぶつけられた視線。少しも動けない私の肩に手をかけ、ソファに座らせる。彼女はBGMのボリュームを最小に絞った。「私の経験上さ、と言ってもまだ数年の経験と、あとは想像なんだけど」汗のかいたグラス、メロンソーダを私の前に近づけて言う。「こういう時は泣いた方がいいと思う。選べるなら泣いてもいい場所で、泣き顔見せていい人の前で、泣けそうな歌聞いて、泣くに限る」
 何を、と言いかけて口を結んだ。駄目だった。本当は優しい言葉を待っていた自分が情けなくて顔を両手で覆ったけど間に合わなくて、込み上げていたものは瞼を押し上げ、次々に零れていった。

 先輩、彼女、できたんだって。
 放課後の廊下、教室での話声は、たぶん、それほど大きくなかったのに、こだまみたいに何度も耳の奥で反数された。私に聞こえるように言っていたのか、そうじゃないのかはわからないけど、廊下の窓越しに「ちょっと声大きい」とそのうちの一人が笑う声がした。
 何も変わらないかのように歩き続けた。一歩、一歩、踏み出すごとに、足が震えていく。すぐにでもこの場から走り去ってしまいたい衝動にかられる。先輩、彼女できたんだって。鼓動がどんどんはやく、大きくなる。
 急に腕を掴まれ、振り返ったら親友がいた。「どうしたの」よく知った顔を見たら、反射的にぽろりと口にしていた。「先輩、彼女できたんだって」彼女はその言葉を聞くや否や、教室に戻り私と自分の荷物を背負い、腕を掴んだまま校門に向かった。

「我慢しないといけない時もある。授業中や家で誰かいる時とかさ、泣けないじゃん。だけどさ、そんな時はあとからでも、ちゃんと泣いた方がいい。泣かないままで平気なふりしてたら、感情、ぶっ壊れると思う。あとから、何かの拍子にその傷が開いて、ずっと痛い気がする。じくじく、さ。かさぶたとかもそうでしょ。放っといてさ、色変わって固くなって、一見治ったと思って触ったら剥がしたくなっていじくってかえって治り遅くなるじゃん。で、痕が残ったりするじゃん。触らずにポロって取れても、前の皮膚と違うの。今って傷口を乾かさないほうがいいんだよ。キズパワーパッドあるでしょ。プルプルしてるそれを貼ると治るのはゆっくりでも、お風呂に入っても上から触っても痛くないし、痕にも残りにくいんだよ。
 つまり、もっと大人になったら我慢しないといけない場面とか、泣けない場所が増えて、それに慣れて自分の気持ちに気付けなくなる。知らないうちに傷がもっと深くなる。だからさ、今のうちに正直になろう。辛い時は安心できる場所で、どんな方法でもいいから、優しくして、気が済むまで泣く。自分に素直になって、自分を許す手段を身につけておく」
 カラオケボックスの中で、親友はわかるようなわからないような理屈を熱弁している。ところどころの言葉が胸を突き、涙腺が刺激される。「カラオケが、キズパワーパッドなの?」「そう、優しさ」その言葉に少し笑った。私には傷口いじってるようにしか思えないけど。でも、明日も続くこの現実から目を背け、耳を塞ぎ、誤魔化し続けることができない場面に、いつか出くわす。結局苦しむなら、教室でも家でもカラオケボックスでも一緒か。
 「わかったよ」と言うと、彼女は履歴から先ほど私が中止した曲を予約した。イントロが軽快に流れる。彼女の歌う前に吸う息を、マイクが拾う。

 昨年の、春の終わりだった。陽の落ちた下校時間、先輩とは正面玄関を出るときに偶然一緒になった。校門を過ぎても「俺もこっちだから」と、先輩は自転車を押しながら同じ道を向いた。前に、委員会の話し合いで席が隣になり、途中で消しゴムを貸してほしいと話しかけられたとがあった。返してくれる時の、長くて綺麗な指が印象に残ったことを思い出した。その手が、少し斜め視線を落とした先に見える。つい、何度も見てしまう、そこにあることを確かめるように。先輩が隣にいる。この距離が自転車一台分、離れていてよかった。耳をすましたら聞こえてしまうんじゃないかと心配になるほど、こんな時本当に胸は鳴るのだ。
 歩きながら、先輩はクラスメイトのこと、部活のこと、近所の家が飼ってる犬のことなど、話題が尽きなかった。緊張から顔が見れず、正面を向いて相槌ばかり打っていたから、不審に思われたかもしれない。それでも途切れず話してくれて、それがとても嬉しかった。
 会話の途中、車のヘッドライトが横切る時、先輩は不意に黙った。言葉が途切れ、生まれたわずかな沈黙の中、黄色い光が静かに並ぶ輪郭を照らしだす。歩道に伸びてゆく、二人と、一台の影。その、くっきりとした闇は、光が離れると、すぐに夜に紛れてしまう。 
 先輩と分かれて息をしたら、冷たい風と濃い若葉の匂いが体に沁みた。さっきまでどれだけ熱を帯びていたのか、馬鹿みたいだな、と思う。けど。まだ、夢のような時間から覚めたくない。リュックからイヤホンを取り出し、耳にはめる。歩き出しながら、曲を選び、再生した。
 ああ、この先の人生で、私はきっと幾度もこの光景を思い出す。嘘みたいな奇跡がずっと続いたこの時間を、浮かんだシルエットを、鮮明に何度も、傷が入ったブルーレイみたいに。その度に、胸を焦がす。


 あの日聞いた曲を、彼女が歌う。実際の歌手が歌う高音のパートは、裏声で。
あれから舞い上がった私は、わかりやすく先輩を目で追い、教室の場所を知って、そのクラスが移動教室で渡り廊下を歩く曜日と時間帯を突き止めた。そして偶然を装って先輩と何度かすれ違った。それくらいしか、できなかった。時々先輩から、挨拶をしてくれた日もあった。そんな日は、あの日と同じように大切にとってある。声の調子、胸の位置で上げた手、後ろ姿。形の無い宝もの、宝の箱は左胸の奥の方。
 もうすぐサビに入る。伸びやかな声とは裏腹に、私の喉は閉まって、鼻の奥が痛くなる。「しんどいよ、もう」この方が、よっぽど荒療治だ。
 多分、私はこの曲も箱の中に入れていて、先輩の姿とあの夜と一緒に取り出して眺めて、まだまだ泣くんだろう。涙はいつ枯れるかわからない。瘡蓋にならずに綺麗に治ってしまう保証はない。明日以降、学校で先輩と彼女になった人を見て、傷は化膿して膿を出すかもしれない。想像しただけでこんなに痛いのだから。だけど、いつか懐かしく胸を狭くする瞬間が訪れるのだろう。この曲を聞きながら、傷を撫でながら、違う誰かを愛している大人の私。はやく、はやく来てほしい。そんな未来が。

 今日、声を上げるほどではなかったけれど、室内にあったティッシュボックスが空になるほど、私は泣いた。明日目めっちゃ腫れるね、なんて話ながら笑って、親友にお礼を言って私たちは帰路に着いた。リュックからイヤホンを出して、曲を選ぶ。無理して明るい曲を聞くつもりはない。恋の始まりから終わりまで、プレイリストでも作ってやろうか。つくづく自分をイジメぬく、いや、優しくする。誰が悪い訳でもない、恋の終わりなんだから。
 はあ、とため息を吐いた。自然と体に入ってきた空気は冷えていて、ほんのり秋の気配がする。
 一曲目をかけ、歩き出したらもう潤んできた。あんなに泣いたのに。月が霞む夜の中で、行き交う車、すれ違う歩く人を目にする。脇をかける自転車、つい青色じゃないかと見入ってしまう。もう、わからないほど暗いのに。
 そんな自分を許したくて、携帯電話に表示された曲の時間を親指で引っ張って、一気にサビまですすめた。

「自転車」aiko



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?