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バンコクの鉄道高架から考える

バンコク・スカイトレイン(BTS)から見る都市の風景

iPhoneと一眼レフの画像フォルダをさかのぼると、バンコク・スカイトレイン(BTS)のホーム上か、高架下を通る歩道橋から撮った写真がたくさん出てくる。BTSのSukhumvit線は、バンコク市内を南北に走る鉄道で、市の中心にある戦勝記念塔駅やSiam駅、週末市場で有名なChatuchak駅などを繋ぐ。鉄道高架下は南部ではSukhumvit通り、北部ではPhahon Yothin通りという幹線道路が走り、その沿道には複数の巨大ショッピングモール――EmQuartier、Siam Paragon、Terminal 21、EmPoriumなど――が並ぶ。BTSの各駅には、その高架下に沿道の商業施設と接続する歩道橋が建設されていて、それらはスカイウォークと呼ばれている。

4月のバンコクの最高気温は36度前後で推移し、日中に外に出ればたとえ日差しが当たらなくても汗が噴き出す。ただの旅行者の私は、最初のうちこそ暑さを我慢して市内を歩き回り、街路の一本一本を見て回ろうとした。しかしやはり強烈な日差しに段々とやられ、日中は太陽を避けて歩くようになった。そうなると、移動はもっぱら電車を使うようになり、冷房の効いたショッピングモールへと足が向かうようになり、駅から最短でそれらにたどり着くことのできるスカイウォークを歩くようになった。逆に鉄道駅から離れている場所には、足が向かなくなった。それで、移動経路上にある鉄道駅のホームとスカイウォークで、何とかいい写真を撮ろうとした痕跡が画像フォルダに残っていたというわけである。

BTS Asok駅のスカイウォークからの眺め

BTSはバンコク市内の主要幹線上に建設された鉄道だ。用賀から渋谷をつなぐ国道246号線上を通る東名高速道路の高架が、そっくり鉄道高架になったものを想像してもらえるとよい。東名高速の用賀-渋谷区間と同様、BTSの両脇には無数のビルディングが林立しており、特に市の中心部を電車が走行する際には、建物に視界が遮られることが多くなる。この鉄道路線から見える風景は、東京首都圏の鉄道路線から見えるそれとはやや異なっている。

例えば都心環状に高架が敷かれている山手線の場合、都心から郊外へと放射状に伸びる幹線道路を横切るように、その高架が建設される。よって一部の区間を除いて、鉄道路線が幹線道路と並走する形にはならない。また、都心を走る田園都市線や東京メトロ各線は地下鉄化されており、鉄道移動の風景は無化されている。そのため、乗客がビルに囲まれているという感覚を得ることはあまりない。

しかしBTSの鉄道高架は、ビルが沿道に林立する主要幹線の真上に建設されている。主要幹線の沿道は中間層向けのコンドミニアムや商業施設の入居するビルディングの建設が相次いでいる。そこで鉄道路線自体が都市ビルの間に横たわるような景観が形成され、乗客の見る風景はビルによって囲まれたものとなる。

BTS Thong Lor駅からの眺め

バンコクの日常である都心部の慢性的渋滞も、その風景の一要素を構成している。幹線上に中間層向けの住宅や商業施設が増加することと相まって、沿線人口は増大している。そこで朝方と夕方には深刻な渋滞が発生し、上の写真のような、長大な車列による渋滞が形成される。林立するビル、その間を横たわる鉄道高架、その下をゆっくりと前進する渋滞の車列、以上の3つの要素によって構成される風景は、何かとても特徴あるものとして私の脳裏に焼きついている。

移動とマテリアリティ

よく知られているように、ディズニーランドの内側からは外が見えない。土を盛ったり木を植えたりして、外部世界が巧妙に隠されているからだ。その意味で風景は、空間を充満するマテリアリティ=物質性によって支配されると言ってよい。ディズニーランドは外側を隠すだけでなく、内側にファンタジーを創り上げる。視界を埋め尽くすデコレーション――火山や深海や、はちみつ農園といった表面――が、客に違った現実を感受させることを可能にする。それがなければ、私たちは味気ないミッキーと対面することになるだろう。マテリアリティはここでも力を発揮している。

風景がマテリアリティに支配されるのと同様、移動もまた、マテリアリティに支配されている。といったことを述べたのは、移動の社会学を提唱するジョン・アーリである。彼の主張の一つは、人間の行為や意識の編成パターンは、人間を取り巻く物質的環境と分かち難く結びついてきたというものだ(アーリ 2007=2015: 79-80)。私たちの移動は、鉄道や自動車や飛行機、それらを走らせる路線や舗装路や空港、時刻表や信号機や管制塔、電力やガソリンなど、膨大な物量を投じて造り上げられたシステムがあることで、初めて成り立つ。鉄道や自動車や飛行機は、私たちの移動の速度を早め、私たちの知覚する時間や空間の感覚を圧縮させるだけではない。私たちが感受する風景そのものにも強く影響を及ぼしている。

BTS Siam駅に隣接するショッピングモール、Siam Paragon

BTSのSiam駅を例にとろう。Siam駅の南にはSiam Square、北にはSiam Paragonという巨大ショッピングモールが建ち並ぶ。ホームの外を見ると、ビルに視界を遮られ、その外側は見えないようになっている。ビルの壁面には大型の電子サイネージが設置されていて、高級ブランドやイベントの広告がひっきりなしに流されている。

次に「BTS Thong Lor駅からの眺め」とキャプションを付けた1つ前の写真を見て欲しい。鉄道高架は画面の中央に向かって延々と続いている。しかし、それは私たちをどこへでも連れて行ってくれるわけではない。鉄道はある地点とある地点を結ぶ線であって、面ではないからだ。線が通ることのない広大な領域は、鉄道高架を挟み込むように両側にそびえたつビルの双璧の外側にある。

かくして、鉄道高架上からは、外部が見えない。外部はビル群によって巧妙に隠蔽されているからだ。私たちがアクセスできるのは、そして私たちが見ることができるのは、鉄道駅から商業ビルをつなぐ数百mの歩道橋=スカイウォークによって徒歩で移動できる範囲に限定される。この範囲とは、商業ビルと広告によって充満した空間であることを思い起こされたい。移動のための鉄道というインフラストラクチャーと、林立するビル群と、消費のユニットたる商業施設群が、圧倒的マテリアリティをもって、私たちの視界を支配している姿がここにある。

1984年に『自動車への愛』という書を著した環境開発学者のウルフガング・ザックスは、ドイツ人作家ビーアバウムから引用する形で、鉄道について次のように述べる。

鉄道は時刻表に私たちを縛り付ける。業務規程の囚人にされ、鳥籠に閉じ込められる。私たちはその籠を好きなときに開けることもできず、いわんや出ることもできないのだ。今や私たちの個人的自由を束縛するものの象徴となった電信線と電信線の間を、私たちは眺めを愉しむ余裕もないスピードで、土地から土地ではなく、駅から駅へと運搬されるのである。

Sachs Wolfgang, 土合, 福本訳, 1984=1995, 『自動車への愛――二十世紀の願望の歴史』藤原書店, 164-5頁.

しかし二十一世紀の今日では、眺めすらも望むことはできない。問題は時間やスピードではなく、マテリアリティであるからだ。繰り返すが私たちの視界は、物理的に閉ざされている。

「開発」の中で顧みられなかったこと

BTS Asok駅から撮影したCiti社の広告

国際的な金融グループであるCiti社の広告が目に映った。"FOR THE LOVE OF growing, thriving, and transforming since 1967. for the love of progress"とある。

バンコクのようなグローバル・サウスの都市において、「不足を満たすこと」が常に開発思想の根幹を占めてきたことは疑いえない。すなわち、都市として人々の生命維持に不可欠な住居、給排水設備、ガスや電気の供給網、移動のための道路や鉄道網を、国家や企業が管理する。不足があれば、そこに資本を投下してそれを満たすのだ。その中でCiti社のような国際金融グループは重要な役割を占めてきた。

しかしここまでに述べてきたことを踏まえれば、開発思想の中で顧みられなかったことを、一つ指摘することができる。それは、蓄積された資本=マテリアリティのもつ政治性だ。都市に供給されたインフラストラクチャーは、国家や企業の意図するように、または意図せずして、人々の移動や行為や思考を枠づけてしまう。確かに、インフラストラクチャーは私たちの不足を満たす。それを成長や繁栄と呼ぶこともできよう。一方で、それらは私たちの生活様式を別様に構造化してしまう。BTSの鉄道高架に例示したように、蓄積されたマテリアリティは、私たちがその外側にアクセスする可能性を低めてしまう。

ナイジェリアの都市研究者で文化人類学者のブレイン・ラーキンは、ヴァルター・ベンヤミンを引用しながら次のように述べる。

道路や鉄道は単なる技術的な物体ではなく、空想や欲望のレベルでも機能する。それらは個人や社会の夢を暗号化し、それらの空想を伝達し、感情を現実化するための乗り物なのである。ベンヤミンも同様の主張をしている。鉄道とともに育った人々は、それ自体を分析することは決してできないが、その代わりに、自分自身の過去、自分自身の欲望、そしてモノを見る際のフィルターとなるファンタジーに向き合わなければならない、と。実際、ベンヤミンにとって、商品、建物、街路は歴史の動きを内包していた。それらは客観的な歴史的諸力の体現であると同時に、私たちの無意識に入り込み、想像力を支配する。それらはテクノポリティカルなレベルだけでなく、欲望、プライド、フラストレーションといった感情や情緒の動員を通して、私たちを主体として形成する。

Larkin, Brain, 2013, "The Politics and Poetics of Infrastructure." Annual Review of Anthropology, 42, 333.

ここで私たちは再び、ディズニーランドの比喩へと戻る。鉄道高架からの風景は外部から隔離されているばかりでなく、内側は創り上げられたファンタジーで充満している。それは私たちの想像力を支配し、消費の欲望へと駆り立てる。私たちに必要なのは、そうした支配に抗うこと。つまりフィルターとしてのファンタジーに向き合い、その外側――林立するビルの向こう側――を透視しようとする「対抗的想像力」とでも言うべきものである。

「対抗的想像力」の在り処

ここまで私は、鉄道高架から見た風景を、都市化の中で物理的に、そしてファンタジーの中に押し込められた風景として、描いてきた。最後に、そのような閉じられた空間の外側を見通すための、対抗的想像力の在り処について考えてみたい。

フーコーがポストモダンの権力を、身体を規制する日常的権力として描いたことを思い起こそう。BTSの鉄道高架の例にみたように、グローバル・サウスの都市においてそうした権力の一翼を担うのは、インフラストラクチャーに代表されるマテリアリティである。では、そうした権力の網の目の中で、人々はどのように生きるのか。このようにしてフーコーの問いを逆向きにしたのが、ミシェル・ド・セルトーの日常的実践に関する議論である。

ド・セルトーが注目したのは、人々の日常的な手続きが、いかに規律のメカニズムを相手どり、それに従いながらかならずそれを反転させるのか。そして、そこにいかなるもののやりかたが存在するのかである(ド・セルトー1990=2021: 17)。マテリアリティとそれによる規律権力の中で発揮される人々の創造性は、蟻の巣穴が堤を掘り崩すように、反規律の網の目を形成する。これを理論化することが、ド・セルトーが『日常的実践のポイエティーク』で試みたことである。

これを受けて私たちは、鉄道高架に沿って創り上げられた空間の中で、しかしその風景によって完全に規律化されることのない主体の在り処を探ることはできないだろうか。以上のように考えたとき、実はビルの外側と内側を往還する、完全には規律化されえない存在が、確かにあるということに気がつく。

BTS Bang Na駅のスカイウォークにて

路上や街頭で商品を販売する露天商は、バンコク市内のいたるところにその姿を見ることができる。一方で彼らは、都市開発による影響を受けやすい人々でもある。彼らは必ずしも土地の占有権や販売権を持っているわけではなく、地権者や警察によって検挙されたり、罰金やみかじめ料を支払ったりしながら、日々の活動場所を交渉し、渡り歩く。

彼らの活動を特徴づけるのは、何らかの社会的規則――土地使用や商業活動についての規則――に違反しながらも、社会的な容認を引き出すこと――警察や地権者による黙認や買い手の獲得――に成功しているという点である。経済階層の二極化が進む都市部において、露天商という活動形態は、自己資本の少ない人々にも生存維持可能なレベルの所得を得ることを可能にする。よってそうした活動が継続可能であることが、翻って社会的不安を抑制するための機能を果たしているともいえる。そのため国家や企業は彼らを、しばしば意図的に黙認する(Centeno & Portes 2006)。

この地点に、彼らは政治的対抗力の可能性を持つ。なぜなら彼らの存在自体が、規律を逸脱し、それを反転させているからだ。

彼らは支配的な秩序を使用することでその力を発揮していたのであり、拒絶する手段を持っていたのではなかった。彼らは支配的な秩序から離れることなく逃れていたのだ。彼らの差異化する力は、「消費」という手続きのなかに維持されていたのである。

ミシェル・ド・セルトー,山田登世子訳,1990=2021,『日常的実践のポイエティーク』21頁.

私たちは彼らの存在から、ビルと消費のイメージに囲まれた鉄道高架という空間を、別様にまなざすことを学ぶ。その空間は、私たちが自由に移動することができるように見せかけておきながら、私たちを閉じ込める空間でもあった。しかし露天商たちは、その中で人々と交渉し、工夫を凝らし、生活の糧を得てゆく。その姿はまるで、鳥籠の鍵を開ける術を知りながら、内側と外側を自由に往還する鳥のようである。

対抗的想像力の在り処は、以上のような人々の日常的実践の中にある。彼らのまなざしは、開発思想のように都市を上から俯瞰するものとは異なる。それは、そこにあるものをうまく活用し、規則を反転させるための、下からの鋭利なまなざしである。彼らの生き方には、都市という世界を生きるための実践知が凝縮されている。私たちは、その知に学ぶことで初めて、都市のなかにそれまでとは異なる風景を見出すことができる。

参考文献

ザックス・ウルフガング,土合文夫,福本義憲訳,1984=1995, 『自動車への愛――二十世紀の願望の歴史』藤原書店.
ジョン・アーリ,吉原直樹,伊藤嘉高訳,2007=2015, 『モビリティーズ ――移動の社会学』作品社.
ミシェル・ド・セルトー,山田登世子訳,1990=2021,『日常的実践のポイエティーク』筑摩書房.
Centeno, Miguel Angel, and Alejandro, Portes 2006, "The Informal Economy in the Shadow of the State." In Out of the Shadows: Political Action and the Informal Economy in Latin America, Fernández-Kelly, Patricia and John Shelfner eds. Pennsylvania: Pennsylvania State University Press.
Larkin, Brain, 2013,  "The Politics and Poetics of Infrastructure." Annual Review of Anthropology, 42, 327–343.

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