見出し画像

「他愛もない話」が下手という話

日常会話が面白かったり、ジョークで他人を笑わせることができる人は本当に凄いと思っている。初対面の人とも臆することなく、こなれた様子で話をするし、飲み会や友人の輪に登場すると場が一気に盛り上がる。

僕の周りはまさにそういった感じの人が多く、密かにそういう人間に憧れていたりするのだが、いかんせん、会話の盛り上げ方というものがいつも分からなくて困ってしまう。特にクラブなどのイベントだとか、そこまで親しくない人と少人数の空間に居合わせた場面で、そのコミュニケーション能力の乏しさを大いに味わう。

本当に。
とにかく話題が広がらない。
僕は「他愛もない話」が、すこぶる下手なのだ──。

今回は自分の実体験から、なぜ「他愛ない話が下手」なのかを言語化していこうと思う。



実体験から

DJイベントなどで知り合いなどの存在に気付いたら自分から挨拶はするようにしている。何故なら後手に回るほど声をかけるタイミングを見失って、微妙な空気になってしまうからだ。


僕は、「お!〇〇さんお久しぶりです!〇〇(イベント名)以来ですね」と挨拶をする。
相手も「はい、お久しぶりですどうも!」と返す。

問題はここからだ。

僕「はい……ええ…へへ…….(謎のグッのポーズ)」


拳(もしくはサムズアップ)とドリンクのグラスを掲げて「グッ」のポーズ。意味がわからない。
遠巻きにサッと挨拶だけならこれで問題ないのだが、大抵の場合は近況だとか、その場に居ない共通の友人の話とか、ごく簡単な会話にもつれ込むものだ。しかし、それが上手く出来ない。
挨拶を終えてすぐに踵を返されるのはあまり良い気がしないというのは、よく分かっているつもりだ。しかし、これといって盛り上がる共通の話題が思いつかないのが正直なところなのだ。
目の前を立ち去るときの奇妙な間に、相手を少し困らせてしまっている。そんな瞬間はこれまでに幾度となくあった。

本当に申し訳ないなと思いながら、共通の話題を探る。
3週間分ほど相手のSNSのアカウントを遡らせて貰える時間があれば、そこから何か話題が見つかるかもしれないが、いちいちそんなことをしていられる間合いではない。相手がどんな人間かはおおよそ知ってはいるものの、対面で話したときのテンポ感や、普段どんなリアクションを取る人なのかも分からない。
ならばと、髪型や服装など外見の変化についての話題を試みるが、彼/彼女に不快感を与えてしまう細かなライン、いわゆる「地雷」を踏んでしまうかも分からない。最後の手段で僕の近況を語ろうと話題を探るが、それは共通の話題ではないし、出会って数秒で自分語りを浴びせられる相手の事を考えれば、言葉を呑み込んでしまう。僕自身が、すぐに己のフィールドに話題を持ち込んで会話を展開する人が苦手でもあるからだ。
共通の話題として咄嗟に思いつくのはせいぜい「昨今の情勢、物価高」など、その場に似つかわしくない真面目で暗めな世間話か、「年齢においての周囲とのギャップ」とか挨拶から繋げるには重たい話題ばかりが思いつく。
こうして書き出すとなかなかに厄介な性格だ。

ギターが下手で外見がおじさんの「ぼっちちゃん」が出来上がってしまった。
怖すぎる。

一方で、話上手な友人の立ち回りを見てみる。彼らは挨拶をフックに、間髪入れず次の話題だ。気がつけば10分ぐらい話し込んではケラケラと笑っている。「君たちはいつからそんなに仲良くなったのだ」の訊きたいぐらいの盛り上がりだ。そしてそこにひとり、またひとりと集まり、人の輪が出来上がっていく。恐らく、無意識的にコミュニケーションのコツを実践しているのだろう(無意識の定義については難しい話になってくるので、あくまで広義のワードとして使う)。


僕が話下手になってしまう理由

コミュニケーションのテクニックについては、あらゆる書籍やインターネットに記載されているが、それを頭ごなしに試す前に、まずはその時の心理状態を言語化してみようと思う。
以下に「僕が話下手になってしまう理由」を具体的に挙げてみる。

  • 嫌な気分にさせたらどうしよう

  • 情報を間違えていたらどうしよう

  • 気の利いたワードを選ぼうと焦る

  • スベったら気まずい

大いに心当たりがある。
これらの理由を更に細かく言語化していこうと思う。


1.「嫌な気分にさせたらどうしよう」

これは人付き合いの上で大切なことでもある。相手を思いやる気持ちはなくてはならないものだ。年齢や立場ごとにリスペクトの仕方というものがあるし、これを考えずに会話をしていたらいわゆる「失礼なヤツ」になってしまう。昨今では特に問題になっているし、なおさら気をつけなくてはならないと思っている。

2.「情報を間違えていたらどうしよう」

情報とは、音楽を聴きに集まるクラブなどであれば楽曲や作曲者の名前や音楽知識であり、オタクのオフ会などの集まりであれば、作品やキャラクターの名前、設定、セリフなどのことである。記憶力には限界がある。しかし、僕はこれを間違えてしまったときの反応が怖い、という気持ちを少なからず持ちながら会話に臨んでいる。知ったかぶりとは印象が悪いものだ。

3.「気の利いたワードを選ぼうと焦る」

これは、僕以外にも思ってる人が多いかもしれない。インターネットが発達してからというもの、笑いのハードルが格段に上がっている印象がある。「話の面白い人」は、旬な話題を提供する能力と共に、ユーモアも持ち合わせている。
SNSを開けばウィットに富んだコメントがずらりと並んで、「自分はなんてつまらない人間なんだ」と落ち込んだことがある人も少なくないだろう。当然僕のような「何をやっても真面目に見える人」は本当にいたたまれない気持ちになっていて、「何か自分もやらなければ」と頼まれてもいないのに焦っては空回りをすることがある。
実際、果敢にボケたり突っ込んだりしても、優しく「うん?」とか「え?」とか言われたことは数知れず。

ああ、書いていて辛くなってきた。

4.「スベったら気まずい」

挙げ句は、最後まで演じきれない情けなさだ。そうして場を静まり返らせたことは何度かある。そのうちの何回か「ウケを取りたいならやりきれ」という気持ちでボケ倒したところ「本気で変な人」になってしまったことがあり、真面目な「引き」が発生してしまった(もちろん社会的にアウトなことをしたり、言ったわけではない)。赤っ恥である。笑いの方向性を見過ったことを申し訳ないと思う気持ちと、激しいいたたまれなさが、少々トラウマになってしまったのだ。

以上が、僕が「仕事や親しい友人以外」との会話が今ひとつ上手くいかない理由だ。
まあ、あくまで今思いついた範囲で、これが全てというわけではない。

言葉を詰まらせているのは「恐れ」

では次に。
4つの理由の分解により、コミュニケーションにおける「恐れ」と表現できることに気がついた。
さらに、それぞれが一体何に対しての「恐れ」なのかを考えてみる。すると、4つの項目は以下のように言い換えることができるのではないだろうか。

  • 嫌な気分にさせたらどうしよう→「拒絶に対しての恐れ」

  • 情報を間違えていたらどうしよう→「責任に対しての恐れ」

  • 気の利いたワードを選ぼうと焦る→「承認に対しての恐れ」

  • スベったら気まずい→「関係に対しての恐れ」


「恐れ」を理解し、対処する

前述の「恐れ」は、何故そう言い換えることができるのか、そして自分の中でどう対処していくべきなのか、自分なりの考えをまとめてみた。

対処1.「嫌な気分にさせたらどうしよう」(拒絶に対しての恐れ)

発言により相手を傷つけてしまい、拒絶されることへの恐れ。
これを原因に言葉が出てこないのであれば、それは「配慮しすぎ」なのではないだろうか。“全員が傷つかない”言葉ばかり選んでいても、それはつまらないものになってしまうとよく耳にする。
飾らない言葉にこそ、その人の性格が現れる。それを受けて、相手は「好きか嫌いか」の判別をし、心の距離のようなものが決まるのだろう。(人間の好き、嫌いの感情を決めるのは扁桃体という器官だそうだ)
もちろん社会的に最低限の配慮は必要だが、行き過ぎた配慮により相手は自分との距離感すらも掴めない状態になってはいないだろうか。相手との距離を明確にし足場を固めるためにも、顔色を伺うのは程々にしたほうが良さそうだ。

対処2.「情報を間違えていたらどうしよう」(責任に対しての恐れ)

誰しも情報を発信するにあたっては、その正確性に責任を持たなくてはならない。その責任を問われることに対して恐れがあるのだ。
また多くの人はそれを自覚しながらも、「正確性は保証できないけれど、とりあえず口に出してしまう」といった経験があるのではないだろうか。
しかし、情報に対して責任が小さいシチュエーションにおいては、多少の間違いがあったとしても双方にさほど影響はないのも事実だ。(例えば、作曲者の名前を間違えたとか、相手の好きな作品のセリフを間違えたとか。仕事の商談や公的な場と比較をすれば、些細なものといえる。)
同じ嗜好をもった人間が集っている場だとしても、1つのものだけを吸収して生きている人間などは存在しない。そうした「生活の中でお互いが様々な物事に広く関心を持っている」という前提があり、それぞれの物事に対しての優先度も、また人それぞれなのだ。重きを置いているものが違えば記憶している数も違うのは当たり前のことなのである。
単に「間違えることは恥ずかしい」というプライドが邪魔して、それが発言を詰まらせる原因になるのなら、自分の中でその物事の優先順位を上げ知識を付けるか、ハナから己の無知を認めてしまえばいいのだ。常に「教えて貰うスタンス」で会話をする人が話しやすく、好かれやすいのはこのためだろう。

対処3.「気の利いたワードを選ぼうと焦る」(承認に対しての恐れ)

自身の表現能力の乏しさにより、自身のキャラクターが揺らいでしまうことに対しての恐れといえる。これはメディア、インターネットやSNS普及の弊害といっても過言ではないような気がする。
もちろんワードセンスに富んだ人間は一定数必要だが、得意でもない人間が、ぜひ笑いをとる、笑われる人間である必要があるのだろうか。人の輪の中で、自らの短所を取り繕うために本来の自分とはかけ離れた仮面を作ってしまってはいないだろうか。
「ウケる言葉」だけが自分の中に蓄積されていくと、実体験が伴わず、説得力のない発言ばかりをする人間になってしまう。
確かに人生の様々な場面、関係においていくつもの仮面を作るのは必要なことなのだが、承認欲求に取り憑かれ本来の性格とは対極の仮面を作ってしまった場合、息は苦しくなる一方ではないだろうか。
「真面目ちゃん」でも、別に構わないのだ。何も悪くない。元々誰かに期待されているわけでもないし、そもそも話し相手に興味をもつことが先なのだ。自分への印象や返答ばかりを気にしていては、それは一方的なものであり、本当のコミュニケーションとは言えないのではないだろうか。
語彙を増やしたければ、本や文章やあらゆる創作を享受し、咀嚼し、自分で書いてみるのだ。自分の中に残った知性だけが言葉として発され、それが豊かなほど他人に興味を持ってもらえる人間になれるのではないだろうか。

対処4.「スベったら気まずい」(関係に対しての恐れ)

これは、「会話で失敗したあと」のその人との関係悪化に対する恐れだと考えられる。対処法として言えることは、そもそも親交が浅いなら「打って出ない」ことだ。必要のない土俵にはそもそも上がらない。
気の置けない仲で、関係性がある程度保証されている状況なら多少の無理もいいだろう。ただ「このノリについて行かなくては」という焦りに駆られて思ってもいないことをするのは、辛くなるだけだ。
それに面白い人は、面白いと笑うオーディエンスが必要だ。「引き立て役」は恥じることではないのだから、取り繕う必要はないのだ。


最後に

こうして書き留めてみて、またいくつかの自分の弱点を言語化することが出来た気がする。一言で言えば「肩の力を抜いて、もっと楽に話そう」で済む話だが、そのやり方がイマイチ分からなかったのだ。
恐らく僕は、相手の「反応」や「話題」ばかりに注目して、話し相手本人に対して興味を持てていなかったのだろう。大変浅はかな人間だったということに気付いた。
趣味や嗜好、話題そのものではなく、まず相手に興味を持たなければ、良質なコミュニケーションは成立しない。ワイワイと場を盛り上げられる彼ら彼女らは、他者に対して常に「あなたを知りたい」という興味を持って接しているのではないだろうか。そして話題とは、相手の言葉から広がっていくものなのかもしれない。
しかし、彼らのような話術は一朝一夕には身につかないので、ひとまず聞き手にまわることを心掛けてみようと思う。

気になることがあったらたずねてみて、また相手の話を聞く。
相手を知ろうとする。

そういったところから焦らずに実践してみようと思う。ぐっと己の主張をこらえることが肝要だ。
そうして「飾らずに話す」ことが、お互いが安心できるコミュニケーションを実現するのではないだろうか。その時に発される言葉の数は、最初は少ないのかも知れないが、純度の高い会話は可能だ。

時には価値観の違いにより衝突しそうになる時がくる。きっとその時に役立つのが「恐れ」であり、それをコントロールしてお互いが歩み寄り、落とし所を擦り合わせるように努力することが、より良いコミュニケーションに繋がるのだと思う。

また、それこそが「対話」というものなのではないだろうかと考えている。
「対話」というものついては最近気になっている書籍があり先日購入したので、読み終わったところでまた感想を踏まえて言語化していきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?