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非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話が好きすぎる ~『からくりサーカス』と『寄生獣』

お久しぶりです、Cahierです。3か月くらい放置してました。すいません。

皆さん、お盆休みはいかがお過ごしでしょうか。僕は漫画読んで映画見てゲームしてたら終わりました。いつもと変わりないね。

休み中、久しぶりに『からくりサーカス』を読み直しました。皆さん知ってます?『うしおととら』の作者の作品ですね。バリバリ少年漫画ですが、僕が知っている中でも3本指に入るくらい泣ける漫画なので読んだことがない人はぜひ読んでみてください。無料とかには特になっていません、多分。
2018年にアニメ化もしています。こっちはAmazonプライムで見放題です。原作からカットされた部分が多く、原作ファンからの評判はすこぶる悪いですが、作画は悪くないですし、話の流れを掴めると思います。Amazonプライムで見られる人は、ぜひアニメだけでも見てみてください。

それで、『からくりサーカス』を読み直して思ったんですが、僕は「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」がめちゃめちゃ好きなんですね。ちょっと何言ってるか分からないと思うので、『からくりサーカス』を例に説明しましょうか。あ、例によって『からくりサーカス』のネタバレを含みます。あと、今回はほかの漫画のネタバレも含みます

「フランシーヌ人形」の場合

『からくりサーカス』の前半部は、世界中に病気をばらまきながら人間の殺戮を繰り返す自動人形(オートマータ)の集団「真夜中のサーカス」と、「しろがね」と呼ばれる人形の破壊者たちとの戦いが中心となっています。「真夜中のサーカス」の目的は、最初につくられた自動人形「フランシーヌ人形」を笑わせることです。で、そのために人間を殺しまくるんですね。こいつら、最初に襲った村では、子供の首でお手玉したりしていますからね。

さて、この残酷極まりない集団の首魁、フランシーヌ人形は、とある理由から日本で暮らす「しろがね」の夫婦、才賀正二・アンジェリーナ夫妻のもとに厄介になることとなります。そこで、フランシーヌ人形は、アンジェリーナの出産に立ち会うこととなります。それまで、人間の「感情」にしか興味を持っていなかったフランシーヌ人形は、その時初めて、人間が自らの体から人間を創り出すこと、何十年もかけて成長し、大人になることを知ります。

その後、フランシーヌ人形は才賀夫妻とともに生まれたばかりの娘の子育てに関わっていきますが、そんな折、夫妻のもとを自動人形たちが襲撃します。夫妻やほかの「しろがね」たちが人形と戦い、足止めする中、フランシーヌ人形は赤ん坊を夫妻より預けられ、逃げることとなります。しかし、暗い森の中、フランシーヌ人形と赤ん坊は水がたまった井戸の中に落ちてしまいます。

冷たい水がたまった井戸の底で、フランシーヌ人形は赤ん坊を必死に持ち上げ、泣きわめく赤ん坊に向けて子守唄を唄い、「いないいないばあ」をします。
その時、自分の顔の上で笑う赤ん坊を見て、初めてフランシーヌ人形は「笑う」のです。

非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話

皆さん、わかりました?こういうことですよ!僕が「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」っていったのは!

「フランシーヌ人形」の場合、彼女は造られた「人形」であり、一応自分でものを考え、動くことができる存在でしたが、「感情」を持ちませんでした。そのフランシーヌ人形が、人間の誕生に立ち会うことで、初めて笑う、すなわち「感情」を得る、というのが、上で挙げた話の要点になります。
ちなみに漫画で言うと23巻~25巻、アニメで言うと16話~18話辺りになります。

『からくりサーカス』は、非常に重厚な物語ですが、このような「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」が幾度も繰り返し出てきます。読んだ人にしかわからないと思いますが、アプ・チャー、シルベストリ、コロンビーヌ辺りのエピソードがそうですね。特に、前者2体は人間を理解するために人間社会に潜伏していた自動人形でした。

こういった物語の類型はいろいろな場所で見ることができますよね。例えば、『寄生獣』です。『寄生獣』に登場する寄生生物「パラサイト」は人間に寄生し、宿主以外の人間を捕食します。感情がまったくないわけではなさそうですが、極めて自己中心的で、冷酷です。しかし、作中に登場するパラサイト「田村玲子」が人間の子供を出産し、最期には「母性」を目覚めさせたかのような行動を見せますし、主人公に寄生したパラサイト「ミギー」も、終盤、自分の命を犠牲に、主人公を敵から逃がします。

ほかには、『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編のメルエムとかでしょうか。

大体、「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」がどんな感じのものか、掴めたでしょうか。僕はこういった類型の物語がとにかく好きなのですが、ちょっとここで気になることがあります。「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」という名前は、僕が思いつきで付けた名前です。上記のような類型の物語に、このような名前を付けることに、皆さんは違和感を感じませんでしたか?私は感じませんでした(自分で付けているからね)。でも、よくよく考えると、変なネーミングじゃないですか?

まず、「非人間的な存在」というワードについて検討してみましょうか。このワードに関しては、特に不思議なことはないと思いますが、一応確認してみます。上で挙げた例だと、『からくりサーカス』の自動人形、『寄生獣』のパラサイト、『HUNTER×HUNTER』のキメラアント、これらはいずれも作中に登場する「人間」とは別種の生物です。『からくりサーカス』の人形たちに至っては、生物ですらありません。これらの存在をまとめて「非人間的な存在」と称するのは、そう不思議ではないと思います。

不思議なのは、「人間的なもの」というワードです。上で挙げた例だと、『からくりサーカス』のフランシーヌ人形は「感情」を身に着け、『寄生獣』の田村玲子は「母性」を身に着けています。ミギーは「自己犠牲」ですかね。『HUNTER×HUNTER』のメルエムが何を身に着けたか、についてはいろいろ入り組んでいると思うので割愛します。
上記にあげた例だけでも、それぞれがまったく別々のものを身に着けている、あるいは理解しているように思えます。それなのに、なぜ、僕はこれらに直感的に「人間的なもの」というワードを当てたんですかね?次の節ではこの辺の話をしましょうか。

「人間」の定義

僕が「人間的なもの」というワードを使った理由は、考えてみれば非常に簡単でした。上で挙げている3つの漫画は、いずれも「人間」と「人間以外」が争う物語だからです。要するに、「非人間的な存在」と対比されるものとして「人間」がいる作品なんですよね。
そういうわけで、比較対象がいる分だけ、こういった漫画には作者の人間観、あるいは「人間の定義」ともいえるものが非常に色濃く表れます。ここでは『寄生獣』と『からくりサーカス』について検討してみましょうか。

『寄生獣』では、主人公シンイチは、最期の強敵「後藤」の瀕死の姿を前にして次のように考えます。

殺したくない……正直言って……必死に生きぬこうとしている生き物を殺したくはない……
そうだ……殺したくないんだよ!殺したくないって思う心が……人間に残された最後の宝じゃないのか

なぜ、人間はほかの生き物をこんな風に憐れみ、悲しむことができるのか。この疑問に対し、ミギーは次のように答えます。

これこそが、『寄生獣』の作中において、そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ
だがな、それこそが人間の最大の取り柄なんだ。心に余裕がある生物、なんと素晴らしい‼

これこそが、パラサイトであるミギーが見つけた「人間の定義」であるといえるでしょう。心に余裕があるからこそ、他者に想いを馳せることができる、これこそが人間である、とミギーは考えたわけです。

それに対し、シンイチ自身が考えた答えが次になります。

他の生き物を守るのは人間自身がさびしいからだ。
環境を守るのは人間自身が滅びたくないから。
人間の心には人間個人の満足があるだけなんだ。
でもそれでいいし、それがすべてだと思う。
人間の物差しを使って人間自身を蔑んでみたって意味がない

「人間と寄生生物の中間の立場」を生きたシンイチの答えは、人間がほかの生き物を思いやるのは、所詮人間自身の都合でしかない、というものでした。しかし、恐らくは、こう思えることこそが、「心の余裕」なのでしょう。なぜなら、パラサイトが人間に対し思うことはたった一つ、「この種を食い殺せ」だけだったからです。

ほかの種を含めた他者への思いやり」これが、『寄生獣』の作中における「人間の定義」であるといえるでしょう。ミギーが見せた「自己犠牲」も、田村玲子の「母性」も、この一部であると言えます。

『からくりサーカス』の場合はどうでしょうか。「人間」と「人間以外の種」との関係性そのものが物語の主軸であった『寄生獣』と違い、『からくりサーカス』は様々なテーマを含んだ作品です。全43巻と長いのもあり、そこに現れる「人間の定義」は一様ではありません。ここではあくまで一つの例を挙げるにとどめたいと思います。

『からくりサーカス』のヒロイン、しろがね(自動人形と戦う人々の総称でもあるんですが、ヒロインの名前でもあるんです)は、幼少時より「しろがね」としての厳しい訓練を受け続け、感情を失った「お人形」でした。そんな彼女が、とある少年の護衛のために日本を訪れます。そして、その中で出会った青年、加藤鳴海に心惹かれていきます。しかし、加藤鳴海は物語の序盤で爆発に巻き込まれ、生死不明となります。物語の中盤でしろがねと鳴海が再会した時には、鳴海は過去の記憶を失い、しろがねのことを忘れていました。それどころか、自動人形がまき散らす病気を治す手段を知っているのはしろがねだけである、という情報を吹き込まれ、彼はしろがねを憎んでさえいました。

物語の終盤、世界中に病気がばらまかれ、無事な人間がごくわずかになった世界で、しろがねと鳴海たちは自動人形たちとの最後の戦いへと赴きます。ここに至って、ようやく、加藤鳴海は自分の心に気づきます。「はじめて会った時からずっと、しろがねを愛していた」と。その時、しろがねは思います。

なんて素敵なんだろう。自分の心が相手に届くのは…
なんて素晴らしいのだろう。大好きな人の笑顔を息のかかる近さで見ていられるのは

そして、この時、初めてしろがねは心の底から「笑う」のです。同じような経験をした女性が、『からくりサーカス』にはほかにもいます。一人は、フランシーヌ人形。彼女も、自分の心を赤ん坊に伝え、初めて「笑う」ことができました。もう一人は、フランシーヌ人形の元になった人間の女性、フランシーヌ。彼女もまた、死の間際に想い人の自分の想いを伝え、「笑い」ながら死んでいきました。この二人の経験が、しろがねのものと同種のものであったことは、作中でも語られています。
自動人形にも、このような経験をした女性がいます。コロンビーヌです。彼女もまた、命を懸けて守った人間に自分の心が届き、「笑顔」で死んでいきました。

『からくりサーカス』における「人間の定義」の一つを述べるならば、次のようになるでしょう。

他者に自分の心を伝えることができ、それを喜ぶことができる

これがてんでできなかったのが、自動人形たちの生みの親にして、物語におけるあらゆる不幸の黒幕である白金(バイ ジン)です。この男はフランシーヌに心惹かれるも、思い実らず、フランシーヌ人形を造ります。しかし、フランシーヌ人形が笑うことができないと知ると、彼女を捨て、今度はフランシーヌに瓜二つの「しろがね」、アンジェリーナに惹かれます。アンジェリーナが日本で才賀正二と結婚すると、今度は彼女の娘であるしろがねを狙います。それでもうまくいかなかったので、最終的には全人類を滅ぼすことにします。

最初のフランシーヌの頃から250年間、他者に自分の心を伝えることができず、その喜びも知ることができなかった哀れな男が、『からくりサーカス』の黒幕なのです。

そういうこともあって、上にあげた「人間の定義」は、いくつかある中でも、『からくりサーカス』という作品の根幹をなすものであるといえるでしょう。

こういった「人間の定義」は作者の人間観などによっても違うと思いますし、これといった正解はないと思います。他方で、好き勝手に決めてもいいものでもないでしょう。なぜなら、この定義が当てはまるとされるキャラクターたちは、創作の中のキャラクターとはいえ、私たちと同じ「人間」でなければならないからです。すなわち、彼らは私たちにとって感情移入の対象でなければいけません。単に「感情」「自己犠牲」「母性」というだけなら、動物も多分持っているでしょう。でも、上にあげたような「定義」は、確かに人間にだけ当てはまり、しかも多くの人がある程度は同意できるようなものであると思います。そう思うでしょ?思わない?ふ~~~~~~~~~~~ん。

終わりに ~なぜ僕はこの物語が好きなのか

長くなりましたが、僕の好きな「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」という物語の類型がどんなものか分かっていただけましたかね?まあ、多分『からくりサーカス』にまつわるくだりとかは分かりにくかったと思うのでとりあえず漫画を読んでください。だいぶネタバレしましたが、結構重要な情報を隠しているので、この記事を読んだ後でも驚きをもって読めると思います。

最後に、なんで僕がこの種の物語を好むのか、という話をします。まあ、嗜好の話なので、厳密に言語化するのが難しい部分もありますが。

なぜこの種の物語が面白いのか。それは、およそ究極の「他者理解」の物語だからです。「他者理解」の難しさというのは、まあ人間生きていれば誰もが直面することだと思います。それでいて、この問題は、例えば、宗教対立といったような形で、人類そのものの歴史にも暗い影を落としてきたといえるでしょう。人間同士でさえそうなのだから、多分ほかの種の生物と心を通わせるなどということは、火星に行くよりも難しいことでしょう。それでも、私たちは、「他者理解」というものに理想を抱かずにはいられません。それは、恐らく、多くの人が「他者理解」の困難さを知ると同時に、それが不可能ではないことを知っているからでしょう。なんとなくでも、「他者理解」を成し遂げたという経験が、皆さんにもあるのではないでしょうか。

生物、さらには、生物ですらない存在が、全く別の種類の存在と心を通わせる、というのは先にも述べた通り、究極の「他者理解」といっても差し支えないでしょう。そして、我々の経験が、それは全くの不可能というわけではないという直感を与えます。その時、この究極の「他者理解」はリアリティーを持ち、感情移入の対象となります。キャラクターが困難を乗り越え、「他者理解」を成し遂げた喜び、達成感が、それを読む自分自身のものとして体験できるわけです。

「非人間的な存在が人間的なものを身に着ける/理解する話」の面白さというのは、大体こんな感じだと思います。

ずいぶん話が長くなりましたが、僕はこの種の話がマジで好きなので、こんな感じの話を楽しめる漫画・アニメ・映画・小説などがあったら是非教えていただきたいですね。お願いします。

今日はここまで。久々に書いたんですけど、気づいたら6000字くらい書いててビビりましたね。
また時間があったら書きます。さよなら。

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