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運の研究/実用篇

ショッピングモール駐車場の出入り口でのこと。
支払いのための500円玉を用意しつつ、駐車券を精算機に差し込むと、0円の文字が光りました。
液晶画面をよく見ると、現在時刻の末尾は、入庫と同じ31分。数十秒の差で、超過料金がかからずに済んだのです。

ふわりと上がるバーの下をくぐり抜け、なんてラッキーと喜ぶ私に、助手席の友人がからかうような笑みを向けます。
「こんなところで運を使っていいの?」
「いいも何も。運は使うほど増えるんだから」
私の答えに、さすが!と友人は笑いを大きくし、初めて聞く意見だ、と言い添えました。



けれど、私は大真面目にそう信じています。
運が、初めから総量が決まっていて、使えば目減りしていくような、やわなものだとは思えません。
際限なくふんだんに用意されていて、望めばいくらでも使うことができる、しかも誰にでも例外はない、それが私の持つ運のイメージです。

あまりに虫が良すぎる、能天気な考えかたでしょうか。
それでも、あれこれと見聞きして、ひそかに“運の研究”を続けている私は、運は大事な時のために取っておいて、普段はけちけちと出し惜しんだほうが良いものだ、などという嘘はとても言えません。


才能や筋力と同じで、運も使わなければやがて弱まり消えてゆきます。
消える、と言う言いかたが正確でないとしたら、気づけなくなる、にしましょうか。
いくら運の良い良いことが起こっても、気づかなければ、それは起こらなかったのと同じです。

よく言う『運が良い人と悪い人の違いは、自分がそうだと思っているだけ』という言い回しは真実です。
人によって運に差があるように感じられるのは、その人の生きかたによってそれが表面に現れて見えるかどうか、どのようにそれを活かして使いこなすか、あるいは捨て置くか、といったところが大いに関わります。


運は私の想像では巨大な海に似ています。
海辺にいくら大勢が集まりコップで海水をすくっても、海そのものが干上がることはあり得ません。海は私たち全員が飽きるほど汲んでもなお有り余るほど、限りない水をたたえています。

運もそれと同じです。誰かが使っても無くなりません。
人と競争したり蹴落として手に入れなくても、誰もに十分に行き渡るだけの運は、広大な海のごとく私たちの前に用意されている、というのが私の運の捉えかたです。


ではその運をどうすればもっと上手く、それもたくさん手にできるかを考えた時、簡単で効果的な方法はいくつかあります。
まずは先ほどあげた、運に目を向け注意すること。やって来た運に感謝すること。
そして、人の運の手助けをすること。

人助けの持つ凄い力は、あらゆる宗教や思想家、歴史に名を残す成功者までが、こぞって保証しています。
それも大きな犠牲を伴う英雄的な行為である必要はなく、誰かの喜びを叶えるような、日常のちょっとした親切だけで、施し手の運は強まります。


善行は天に貯金をするようなもの

こう教えるインド哲学の考えでは、相手からの感謝は二次的なものであり、良い行いをした時点で、その人には幸運が返ってくることが決定されるといいます。
そこに一切の例外がないのは、空中に放り投げた石が落下するのと同じくらいに確かです。

運を人のために使う、というのはおそらく最高の運の扱いかたで、これはお金や情報の扱いかたとも共通します。
自分一人で大事に握りしめて取り込むのではなく、快く手放し循環させる。受け取っては次に渡すサイクルに自分も加わる。
この行いこそが、運をより望む形で手にしたり、弾みをつける一番の方法ではないでしょうか。


古代ローマの賢帝マルクス・アウレリウスは、こう書き残しました。

幸運がもたらす富や順境は素直に受け入れよ。ただし、それを手放すときは渋るべからず

大丈夫、私たちはわかっています。
運は何度でも巡ってきます。
毎日、まずは小さな幸運に目を止めて、できれば誰かにも運のおすそ分けをしていきましょう。
その先に素晴らしい幸運が待っています。

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