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ハーバード大のエリートはおむすびを踏むか

もし大勢の人と会って話すのが好きかと尋ねられたら、あまり得意ではないと答えます。

私はそれほど社交的ではない上に、同席する人数が少ない方が、内容的にも深い話が出来るように思うからです。


そのため先週末に5人の人たちと昼食のテーブルを囲んだのは、私にとってはやや緊張を感じる状況でした。
おまけにその中で見知った顔はカウンセラーである友人一人で、あとは友人が心理学の勉強会で一緒だった、未知の人たちばかりです。


偶然の成り行きで私も同席することとなったその昼食会では、心理学に関心を持つ人たちの集まりだけあり、話も人間の心や精神についてに終始しました。

そして、そのうち東洋哲学の話が出た時、世界中でベストセラーになった一冊の本の名前が上がりました。

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学
─悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』

日本でもずいぶんと話題になったノンフィクションで、ハーバード大学の中国学史教授マイケル・ピュエットが、自身の講義の模様に絡め、『論語』『老子』『孟子』などの思想を分かりやすく解説しています。


その本について話しながら、日本の思想や哲学も、いずれ"東洋哲学"としてグローバルな地位を築くだろうか、と誰かが尋ね、それに私の友人が答えました。

ほとんど不可能に近いと思う。なぜなら、日本にだけあるものが、それを阻むだろうから。


それが何かというと、"自然"です。

『論語』や『老子』は優れた思想でも、その中に自然はありません。
かわりに存在するのは自然とは真逆の論理ロジックで、だからこそ西洋は中国思想を理解し、受け入れ、"使える"ものとして評価もします。


その反面、日本の思想や哲学がどうかというと、それらは自然と分かちがたく一体化し、切り離すことは不可能だと気づきます。

それは宗教についても同じで、道祖神神道を外国の人は容易に理解しないでしょうし、自然の中のあらゆる場所に、神はあまねく存在している、などという考えは到底認められないでしょう。

それらが日本以外の国で生まれ育った人に通じないのは、それが感覚の話だからです。


たとえばほとんどの日本人は、道に落ちている食べ物を踏まないし、踏めないでしょう。
私にしても、目の前に土まみれのおむすびが転がっていたとして、もはやそれを"食べ物"とは呼べなくとも、靴の底で踏むことは決してできません。

けれども西洋的な見地では、道に落ちた食べ物を踏むことは何の罪悪感も起こさせない、他のごみを踏むのと変わらない行為だそうです。

それは良い悪いの問題ではなく、ただ前提とする考え方、あり方の相違です。


その時に誰かが口にした"アメリカには里山の概念が無い"という話も興味深い例のひとつです。

アメリカ人の自然活動家が南米に広大な土地を購入し、そこに暮らす人々を立ち退かせ、人の立ち入らない場所にした。
その活動家が目指すのは、人間抜きで成り立つ生態系を作ることだ、というのです。


これがもし日本の場合であったなら、違った道筋を辿ったでしょう。

たとえば、そこに有機栽培の畑を作る、アグリツーリズムのための農園や牧場を設営するなど、人間と自然の距離を縮め、共生の道を探る場としたのではないでしょうか。
少なくとも、"完全な自然に還す"ために禁足地にするとは思えません。

それは、アメリカ的な、自然は保護されるべき、あるいは征服されるべき対象という思考とは全くもって異なります。


すぐに考えをあらぬ方向へ飛ばしてしまう私は、そこからベトナム戦争におけるアメリカ軍の特異性の説明がつくのでは、などとも考えます。

枯葉剤ナパーム弾
アメリカ軍が使用したこれらの武器は、北ベトナムの兵士と南ベトナム解放民族戦線ベトコンの兵士の命を奪い、戦闘不能にさせるための自然破壊に特化したものでした。


かつて世界中で起こったどの戦争でも、山林が戦場となった際、決して取られなかったのが、広範囲で木々を焼くという戦法です。

考えてみれば、森や山に火を放ち、敵もろとも殲滅させた方が、多くの手間が省けます。
それは最も安全かつ能率的なやり方かもしれません。

それでもそんな例はほとんどなく、あのナチスドイツやスペイン内戦時のフランコ政権でさえ、森を焼くことはしませんでした。
鬱蒼と生い茂る山中を、文字通り"草の根分けて"執念深く探索し、抵抗勢力や逃亡者を拿捕だほしては殺しただけです。


対するベトナム戦争でのアメリカ軍は、更にドライで現実的です。

敵がジャングルに潜んでいるなら、森ごと焼き払ってしまえばいい。そんな合理的判断のもと、アメリカ軍がベトナム全土に投下したナパーム弾と枯葉剤は計10~40万トン。

結果的に、ベトナム国土の3分の2の熱帯雨林とマングローブの森が失われたとされています。


それだけの自然を自分たちの手で破壊し尽くすことに、アメリカは何の躊躇もしませんでした。

これは人間として完全にたがの外れた行為であり、しかも自然は自分たちの意のままになる無機物であるという前提に立ってしか、そんな戦略は遂行されなかったことでしょう。


東洋と西洋の自然観の違いの最もたるものとして、私の頭に浮かんだのはこんなことでした。

昼食のテーブルを囲んでの会話はまだまだ活発で、私もやっとそちらへ意識を戻し、あれこれの話に耳を傾けます。
日本の文化や思想が本当に受け入れられる時が来たら、少しはこの世界も変化するかもしれない、などとささやかな希望を抱きながら。



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