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響き合う苦悩と「罪と罰」

ドストエフスキーといえば、の問いで、まず浮かびそうなのが、この

『罪と罰』             (フョードル・ドストエフスキー 1866年)

たとえ未読だったとしても、そのあらましは広く知られているのではないでしょうか。

作中では、帝政ロシアの首都に住む貧しい青年が、誇大妄想的な思想に取り憑かれて殺人を犯し、逡巡の末、罪を認め改心するまでが描かれます。


私がこの作品を読んだのは、前話でご紹介した『風と共に去りぬ』と同時期の13歳で、あまりに激しい衝撃を受けたため、数日間は他に一切の活字を受けつけなくなるほどでした。

作品自体については、世界中の専門家による多種多様な分析がなされているため、今さら私がありきたりな解説を付け加える必要もないでしょう。


ただ、いくつか印象的な場面を挙げるとすれば、主人公ラスコーリニコフが、広場の地面に口づけ自らの罪と対峙する、という有名なシーンの他に、馬の夢のエピソードがあります。

これはラスコーリニコフが殺人を犯す一月前に見た子ども時代の夢で、父親と田舎町を散策中に、ある凄惨な場面を目撃する、というものです。


夢の中で、町を歩く二人は、とある酒場の前に人だかりを見つけます。

そこには年老いて痩せた馬と、何人かの酔った男の姿があり、男たちは、もう立っているのがやっとの老馬を、面白半分に鞭打ち、殴り、なぶり殺しているところでした。

その馬が絶命すると、ラスコーリニコフは馬の死体に取り縋り、悲痛な絶叫を放ちます。
そしてその悪夢は、目を覚ましてもなお、彼を恐怖のうちに捉え続けるのです。


これは私が発見した、日本語訳ならではの偶然ながら、ラスコーリニコフが手にかけた「老婆」と路上で倒れた「老馬」は同じ音を持っており、その命を理由もなく無惨に奪われる、という恐ろしさも共通しています。

ラスコーリニコフはこの夢により、自らの精神が老女殺しには耐えられないと悟りつつ、やはりその罪を犯します。


それは己の犯罪が「一つの命と引き換えに数千の命を救う善行だという、殺人を正当化する彼なりの機智によってです。

けれど馬の夢が示す通り、彼の本性はそれを否定しており、そのため彼はひどく神経を病み、それが周囲の疑惑を招き、ひいては身の破滅へとつながっていきます。

彼は自ら信じるところに反し、どの瞬間も決して理性的な人間ではなく、殺人者として斧を振り上げるその前から、すでに過敏な感覚に呑まれていました。

それでも後にはシベリア流刑にも付き従うほど彼を愛する女性ソーニャによって、彼は魂の底からの救いを得、新たに生まれ変わります。


このソーニャも複雑な背景を持つ人物で、貧民街に棲まう最下層の娼婦ながら、振る舞いは高貴そのもの。

境遇にそぐわぬ自負を保ち、聖女さながらの慈愛でもって、罪人をも赦し導きます。


中学生だった私にとって、実は彼女こそが最も理解に苦しむ存在でした。

その人生と人物の乖離に追いつけず、なぜこのようなキャラクターが成立し得るのか、完全に自分の狭い了見と想像の範疇を超えていたためです。

ドストエフスキーほどの作家が「聖母マリアの似姿」という凡庸な類型によってのみ彼女を創造したはずもなく、この人にだけは、とうとう最後まで近づくことが出来ない、という実感のまま本を閉じました。


もちろん彼女以外にも、主人公の妹で怜悧かつ情愛に満ちたドゥーニャ、罪の偽証により混乱を引き起こすペンキ職人ニコライ、異様な洞察力で主人公を追い詰め糾弾する予備判事ポルフィーリーなど、この世界の人物は皆、一筋縄ではいかないリアリティと厚みを備えています。

それらの人々がつまびらかにする社会と人間の暗部は、時に狂気的なほどであり、言葉もなくただ圧倒されたことを覚えています。


私は相変わらず学校での居場所がなく、クラスメイトとも交流が持てない代わりに、本によって社会や人間関係を学んでいました。

そこで出会ったロシアの一青年と、その周囲に生きる人々の心持ち、運命の哀しさに震えつつ、どこか共感できるような気もしていました。
私もとても孤独で、自らの不甲斐なさに苦しみ、誰にも理解されない悩みばかりを抱えていましたから。

一世紀以上も前のロシアの人々の苦悩と、そこから遥か遠くに生きる私の心情とが、どこかで感応し合い慰められる、というのは不思議で得難い感覚でした。

けれどそれほどまでに、この物語は時や場所を超越し、どのような闇の中でも底光りする、強靭な何かを備えているのだと思えてなりません。


それでは、また次のお話でお会いいたしましょう。


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