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1945年8月に私も犬を飼うだろう

日本が諸外国との長い戦いを終え、ようやく"戦後"が始まったのは、79年前の今日、8月15日です。

私はその日を語る多くの手記や映像に触れてきましたが、中にとりわけ印象的で、変わったものがありました。


語り手の女性は犬好きで、実家でも代々、警察犬として有名な大型犬のシェパードを飼っていたそうです。
それも、戦争中を除き一度も犬を"切らした"ことがないほどで、ある時その理由を尋ねてみると、母親は初めて見るような、静かな表情になりました。
そして、子どもの頃、一番はじめに家にいたシェパードを覚えているか、と質問したのです。


その頃、まだ女性は小学校低学年でしたが、どうしたって忘れるはずがありません。
大好きだったその犬とは、国によって"供出"を命じられ、泣く泣く別れることになったのですから。

その女性の犬だけでなく、戦争中の動物たちは、ほとんどが同じ運命を辿りました。
各家庭の犬、猫、馬、豚、鳥や兎までもが、軍用や食用のため、全国から隈なく集められました。

国民に拒否権はなく、生活や仕事の重要なパートナーであった動物たちは、飼い主の手から容赦なく奪われていきました。


女性も愛犬とは二度と会えず、それだけでなく、更に大きなショックに見舞われます。

"お国のため"と言い聞かされ、手離さざるを得なかった愛犬を、"隣組"の班長は薄笑いで連れて行きました。
その夜、極秘の酒宴が催され、当時手に入るはずもなかった肉が、参加者に大盤振る舞いされたといいます。

話を伝え聞いた母親が部屋の暗がりで泣き崩れるのを、女性ははっきり記憶しています。


やがて8月15日が訪れ、ラジオから流れる玉音放送を聴くやいなや、母親は家を空けました。

帰宅した際はシェパードの幼犬を伴っており、その犬は新しい家族の一員として、大切に育てられました。
戦後の食糧難など、人間でさえ食べていくのがやっとの時代に、母親は犬を決して飢えさせず、よく太らせ、手入れして艶のある毛並みを維持したそうです。

自慢の愛犬を見せびらかすように連れ歩く母親に、近所の人々の視線はあたたかでした。
唯一の例外が隣組の班長だった男で、道で犬連れの母親と行き合っても、顔をうつむけ、決して目を合わせようとしませんでした。


その犬が老衰で亡くなると、再び別の子犬がやって来ました。今度もやはり同じ犬種です。

なぜうちはシェパードばかりを飼うのだろう、というかねてよりの女性の疑問は、この話によって解消しました。

戦争中に飼い主たちからもぎ取るようにして供出させられた動物たちは、とうとうただの一頭も、元いた場所に帰っては来ませんでした。
国家同士の争いは、双方の国の人間の他、罪なき動物たちの命をも奪ったのです。

女性の母親が貫き通した"意地"は、そんな事実をいしずえとしたものでした。
国家という、一個人にはとうてい太刀打ちできない相手に対する憤り、これからは決して自分たちの暮らしも、動物たちの命も蹂躙させまいという固い意思の込められた。

母親にとって、敗戦後の町を歩くシェパードは、そんな決意と平和の象徴だったのです。


それに心から賛同するからこそ、もし私も1945年の8月に生きていたなら、きっと犬を飼ったでしょう。

萩原朔太郎の書くような、敗戦後の茫然自失の心を引きずりながらも。
その日から、否応なく新しい時代が始まり、人々は再び、それぞれの人生を生き始めなくてはならなかったのですから。


八月十五日の出来事
萩原朔太郎


その日、誰一人泣かなかった。

夏の明るい日が 沈んで行くまで
人々は言葉を失っていた。
信号無き交差点には
人と車がひっきりなしに流れた。

その日、誰一人泣かなかった。
街の隅々まで 静かな喜びが満ち
過ぎ去った日々の 苦しみが消え失せた。
しかし笑顔もなく
人は人の顔を見つめ合った。

その日、誰一人泣かなかった。
ふと人は 未来への不安におののき
過去を振り返ったが
すべて幻影のように遠く感じられた。
その日、誰一人泣かなかった。





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