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埋められたのではなく、植えられたのかも

巡ってくる四季それぞれに素晴らしさがあり、冬には冬の美しさが満ちています。
例えば澄んだ夜空にきらめく星、冷たく凛とした空気の心地よさ、温かい飲み物を手にしたときのゆるむ感じ、他の季節には叶わない重ね着の楽しさなど。
そんなふうに、この時期ならではの良さに目を向けたいと思いつつ、残念に感じるのが街で見られる花の少なさです。
見通しの良くなった花壇には風が吹き抜けるばかりですし、樹々はすっかり葉を落とし、細い枝が冷たい風に震えています。
街なかの彩りと目で得られる喜びが減り、こちらの心持ちまで暗く沈むような気がしてきます。
こんな時こそ気持ちを切り替え、部屋で花を育ててみようと思うのですが、“緑の手”を持たない私は、植物を育てることが苦手です。
これまでに可哀そうな鉢植えたちを、どれほど枯らしてきたことか…。

そんな私が、どうにか成功させられる唯一のものが水耕栽培です。子どもの頃に経験した、という方もいらっしゃるのでは?
水を張った容器に球根の底をつけておくだけで、やがて根が伸びてきて、発芽し、花が咲く過程を楽しめます。
失敗をしないこつは、ほんの少しだけ注意深くなること。ふさわしい時期を待つ、水を変えるのを忘れない、球根を腐らせないなど、必要なのは最低限の配慮です。
あとは、発芽するまでの気配りが大事でしょうか。

球根をセットするためのガラス容器を購入したとき、外箱には上手な栽培の案内として、こんな注意書きがありました。

発芽するまで球根はできるだけ暗く静かで涼しいところに置いておきましょう

土の中と同じ状態を再現するためのこの気配りは重要で、球根を冷蔵庫の中で保存したり、分厚い布や箱などで容器ごと覆ったりと、多くの工夫の仕方があります。

この注意書きを目にしたとたん、私はずっと以前に目にした、とある広告コピーを連想しました。
残念ながら手元に資料は無いのですが、あまりに印象深かったため、今でもはっきり記憶に残っています。
その広告の枠内には、水彩絵の具で描いたような淡い抽象画を背景に、こんな文章が浮かんでいました。

暗いところにいて、埋められたのではなく、植えられたのかも

たった一行、これだけです。
人によっては、何それ、で終わるだけかもしれませんが、私には深く響くものがありました。
他にどんな内容の文章が添えられていたか、思い出すこともできないながら、この一文だけは、ふとした拍子に頭に浮かんでくるのです。

地中深くに埋められ忘れ去られたかと思いきや、実は成長のために植えられたのかもしれない。
もしそうであったなら、暗く長い冬を耐える種や球根と同じように、やがて来る芽吹きのために、今は準備期間を過ごしているのだ。
そんなふうに考えると、置かれている環境のとらえかたも変わってきます。たとえ今、思い通りの日々を生きられていないと悩んでいても。
あまりに単純な考えかもしれませんが、真実を含んでいるのではとも感じます。あの広告と球根栽培容器の外箱の注意書きとが結びついて、私はそう実感しました。
それは、深い智慧の言葉そのものです。

私の育てるヒヤシンスの外箱はすでに外され、窓辺で陽の光を浴びています。今年も無事に発芽を迎えましたし、あと数週間もしないうちに、花も咲かせてくれるでしょう。
埋められたのではなく、植えられたのかも。そう信じてみることは、生きることの支えとなるかもしれません。

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