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【閑話休題】シドニーライリーの諜報飯

 007 旅順より愛をこめて。
 
 シドニーライリー。イギリスの諜報員だ。よく気が触れずにいるものだと思うほど変わり身立ち回りの早い男。数年前まではサンクトペテルブルグの英大使館にいたらしい。卵料理が本当に好きな男で、やつが日本に来たら京都にでも連れて行ってやろう。京都のだし巻きたまごをライリーに食わせたらどんな顔をするだろうか。ともかく、彼の作ったスクランブルエッグは完璧である。
 
 あれは旅順だった。明治三十三年から去年にかけて起きた義和団事件といい、話題にことかかない。大連に自由貿易港ができ、旅順には軍港ができた。もともとは淋しい漁村だったと聞くから、この小さな村の運命も大きく変わってしまったものだと思う。戦となれば港をつぶすのは常套手段である。
「やあ」
「アカシ、そっちはどうなんだ?こちらは、いつでも」
 顔の皮をひっぺがして別人のをつけたと思うほどにこにこと彼は言った。
「僕の前では貿易商ぶらなくていいんだぞ」
 今は彼は素性を隠し貿易商としてここに住まいをかまえている。ロシア軍と仕事をする裏で日英同盟の名の下に我ら日本軍と秘密のやりとりをして、金を受け取りに日本にも一度きている。
「ぶってる?貿易商が貿易商らしくしてなにが悪い?」
 彼は冷笑的に笑った。これが彼の独特な笑い方だった。心がどこを向いているのかは彼にしかわからない。楽しい時でも、悲しい時でも怒っている時も、彼はきっとこうして笑うのだろう。だが目をこらすと、大きな丸い眼球の奥はいつでも心臓をひと突きできる死神の鎌が冷たい光を放っている。
 僕は面倒だから勘ぐったりしない。死ぬ時は死ぬ時だし、今死んでいない以上考えても仕方ない。今日は、彼が手に入れた要塞地図の受け渡しの日だった。言われていた通りの金額は用意してあるが、少しでも多く情報を聞き出すためじらしたいというのが日本帝国の考えだった。しかし、それは彼も同じだろう。いくら同盟国だからと言って、本当の平等なんてありえない。が、敵だろうが味方だろうが向き合わなくては仕方ない。嘘も誠もそうやって見えてくる。
「まあ、こう人目につくような場所でする会話でもない。どうだ、うちに来ないか?」
「は?」
 まさか自宅に招かれるとは思わなんだ。突拍子もない申し出に鳩が豆鉄砲を喰らったようだった。
「朝の仕事が早すぎてまだなにも食べてないんだ。これじゃあ商売にならん」
 揚々とおおげさな身振りで彼は言った。きっと、彼の貿易商のイメージなのだろう。まあ、いいか。朝からなにも食ってないのはこっちも一緒だった。けど――
「さあ、仮の我が家だが、案内しよう」
 ぶちぶち言う僕を置いてぐんと胸を張り、意気揚々と彼は歩き出した。仕方ないのでついてゆく。
 少し歩くと石造りの平家が立ち並ぶ家が見えてくる。日本の田舎のようでなつかしい感じがするよい場所だが、ここでもすでに火薬のにおいが立ち込めていた。
「ここだ」
 さあさあ、と背を押され中に入ると、中国風とロシア風がまざりあってなんだか全然別の国に来たような気持ちになった。
 彼は居間に僕を通し座らせるとすぐに台所に向かった。居間にはロシアや清の古い置物やら器やらが飾られていた。古物商でもやるつもりなんだろうか。彼は収集癖があるらしい。特別に作らせたのかペチカもある。
 ただ座っているのも手持ち無沙汰で上着を適当に椅子にかけて台所に入ると、彼は湯を沸かし珈琲を淹れていて、テーブルの上には卵がころりといくつかあった。
「へえ、本当に料理なんてするんだな僕は言った。
「そりゃするさ、俺はコックだったこともあるんだ」
 彼は珈琲をすすりながら言った。イギリス人なら紅茶が得意だとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
「アカシも飲むか?インスタントコーヒーだ。サトリ・カトウって科学者がアメリカで発明したらしい。サイフォンがいらないなんてすごいな」
「いや、今はいい」
「そう」
 言うと卵を手際よく割って、フォークを使ってかきまわした。そこに少しの塩胡椒。フライパンは底が深めで、ペチカで火にかけたそれに四分の一ほどのバターを落とし溶かした。とても良いにおいがこちらに香ってくる。バターが溶け切るとそこにたまごを流し込み、ペチカ(ロシアの暖炉兼調理器具だが、これが旅順見られるとはなんとも妙な気持ちだ)のとろ火でじっくり熱しながら空気がうまく入るようにまぜると、表面がきめ細かくなってくる。よくもまあ、卵ひとつにこんなに手間と時間をかけられるものだと感心する。
「向こうに君の席を用意してある。よかったら先に座っててくれ」
 口調はやわらかいが、要は“邪魔だからあっちに行っていろ”と言うことだろう。僕はなにも言わずに大人しく椅子に座って待つことにした。

「おまちどうさま」
 ふんわりと立ち込めるゆげを散らしながら彼はテーブルに皿を持ってきた。出てきたのはシンプルで上品なまさに西洋的な“朝食”であった。
 ほどよくきつね色に焼けた厚切りのパン―あれだけ卵にバターを使っていたのに、丘のように横にバターが添えられている。どれも手に入れるのは難しいだろうに、これも“貿易商”としての力なのだろうか。
 しかし、見事なのはこのスクランブルエッグだ。ふわふわつややかでバターの香りが腹を鳴らす。上にかかっている小ネギみたいなのもなんだかしらんが色味あざやかでよい。
「冷める前に食え」
 焼いたパンにバターを塗り込みながら彼が言い「ああ」と相槌を打ちフォークを右手に持つ。ナイフも添えられていたが、まだるっこしいので使わない。
 まず、このスクランブルエッグからだ。ごくりと喉を鳴らし、山の中腹あたりにそっとフォークを差し込む。先っぽが飲み込まれるようにゆっくりと入っていく。
「いただきます」
 ふわふわすぎて気をつけないとこぼれてしまう。顔の方から近づけ急いで口に入れた。
「――!」
 これが卵!
 食べたことのない食感に、全身が目覚めるようだった。
 とろっとしてふわっとして、これがスクランブルエッグなのかと思うと信じられなかった。卵の甘みを塩胡椒とバターがさらに引き立たせ、デザートのようでさえある。が、小ネギ――チャイブというらしい――が、アクセントを与えて上品な味にしたてている。
「隠し味はなんだ」
「バターと卵だけさ」
 彼はさくっとトーストを齧っていった。信じられない。まるで油のよく乗った牛肉のステーキのような味わいだ。
「うまいか?」
 珈琲で一度口直しをし、彼はトーストの上にその特別なスクランブルエッグを乗せた。そして豪快にその端正な顔をくずし、大口を開けてうまそうにかぶりついた。サククッというトーストが割れる音がする。
 たまらん!
 洪水のようにあふれる唾液を飲みこみ、真似をして厚切りトーストに贅沢にバターを染み込ませた。ナイフを使って黄金にとろけた卵を乗せ、大口を開けてかぶりつく。
「!」
 サクっとした歯応えの後にふわっと、焼けたパンのやわらかさと風味が香る。美味すぎてうまく息ができない。鼻から大きく空気を吸う。
 パンに染み込んだバターがじゅわっと溢れ、スクランブルエッグが受け止めまざり合う。さらに濃厚な味わいが口中に広がった。
 夢中で咀嚼を繰り返し、味わい倒す。飲み込んでしまうさえ惜しい。最後はパンの耳で皿に残ったスクランブルエッグをこそぐようにぬぐい、ぱくっと口に放り込んだ。かちゃりと置かれる珈琲の入ったカップ。そして沈黙。
「……」
「……」
 二人揃って無言で食卓で向かい合い、美しい品の良い食器でフォークとナイフを使いながらイギリス風朝食を食べる大男。絵的にぞっとしないが、そんなのどうでもいい。
 最後にコーヒーを一口。
「ふぅ……うまかぁ…」
 頭の中でまだあの金色の残像が見える。
「うまいだろう。卵料理にはこだわりがあるんだ。女王だって唸らせることができるさ」
 彼は言った。大胆不適で豪快な彼にこんな特技があるとは驚きだ。じっと見つめていると、
「なんだ?」
 彼は口の端を少しあげて笑った。よい男だ。少し影のある感じ、それに涼しい目元。女でなくても彼を魅力的だと感じるものは多いだろう。
「いや、意外な趣味に驚いているだけさ」
「ははは」
 声を出して彼は笑ったが、きっと、そう、こうして談笑している時だって彼は駆け引きをやめないのだろう。彼は僕に負けないほど仕事が好きなのだ。僕が彼を本当のスパイだと思う理由は、いつだって彼がそのスリルを楽しんでいるというところだ。
 苦しいことは結局長くは続けられないものだと思う。生き物としても人間としても。彼の全身からかもしだされるきらめきは、自らを危険に晒すことで浮かび上がってくる“生きたい”という生物としての本能から来るのかもしれない。ずるいと思うのは、どきっとこいつには何をされても憎めないだろうということだ。どうしてか、彼は人を信用させる力があるように思える。どうしても彼に惹き寄せられてしまうのだ。みんな、そうなんだと思う。
「うまい飯をありがとう。材料だけでも手に入れるのは大変だろうに」
 僕は正直に言った。
「アカシ、今度ニホンのトーキョーでぜひうまいものを食わせてくれ。その時はお互い仕事のことを忘れてパーッとやりたいものだな。ニホンには素晴らしい骨董品のコレクションがたくさんあると聞くしな!」
 彼は子供のような顔で笑った。
「ああ、いいとも。約束しよう」
 本当の心のうちは知らないが、僕がは本当のことを言った。

 しばらく、日本のこととかそれぞれの生い立ちのこととか(これもどこまでが本当かはわからないが)をだらだらと語り合い、気付けば太陽はどんどん西の彼方に落ちていた。
「今日は時間があるから夕食もどうだ?」と誘われたが、遠慮した。これ以上彼に入れ込んでは仕事がしにくくなる。
 友達に言わせると、僕は人がよすぎるらしい。学生時代からよく心配されてる。
 お人好しがすぎると、どんどん友人ができて大切な仲間が増えて、自分の目指すものがごまかされてだんだんわからなくなってしまうぞ、と彼らは言う。
 人間はそんなに強いものじゃないぞ、と。
 わからんでもないが、三子の魂そうそう変わるものでもない。
 預かった要塞地図をふところにしまい、かわりに出した葉巻に火をつけると煙の向こうに懐かしい東京の街並みが見えた気がした。

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