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009 きのこと名乗ったからにはかごに入れ。【明石さんのスパイ飯大作戦ーモスクワ編】

 
 ピロシキ。ピロシキ。揚げピロシキ。
 くん、と鼻をすする。チーズに肉、そして甘酸っぱい香りはシーリウスの言っていた干し葡萄だろうか。ピロシキ食いたさに広い通りを進んでゆくと、レオンチエフと呼ばれる横丁の真向かいに周りと違う面構えでひとを惹きつけている店――
 フィリッポフが死んだパン屋は今はパリ風の二階建ての珈琲屋になっていて、思っていたのとはだいぶ違う近代的な建物だった。けれど想像通りだったのは熱いピロシキの箱のまわりに群れるひとびとの嬉しそうな顔。
「はい、おまちっ!」「こっちが先だよ」「あらごめんなさい」
 どこに行っても似たような風景はあるものだ。ほほえましい。
 家に持って帰るのを待ちきれずに揚げたてのピロシキを立ったままほおばる若い学生。しかつめらしい老いた官史に着飾ったご婦人。これから仕事に行こうかという工人たちの黒ずんだ手。老若男女、どんな身分のものも同じように、まるで洞窟でやっと見つけた宝物みたいにがしりとピロシキを両手で持って食べていた。蒸気に白い吐息が重なってきらきらと日の光がちらばるのどかなモスクワの朝だ。
 燦然ときらめく期待が妄想を膨らませるが、なんにせよ絵に描いた餅では仕方ない。実際に食ってみなければそのすばらしさはわかるまい。
 いそいそ珈琲屋のほうにまわり、中に入る。みんなどんな美味いものを食っているのかと見渡すと、外のなごやかなさとはまったく違う世界が広がっていたので驚いた。とうてい気質には見えない面構えの常連らしき男たちが窓から少し離れたすみのほうに固まって何人か座っていた。時々ぽそぽそと言葉を交わし、その姿に彼らが顔見知りであることは明らかだったがなんだかとてもよそよそしい。
「お茶とピロシキをくれ」
 珈琲はあまり好きじゃないのでお茶にした。テーブルは大理石でできている。和洋折衷とは違うが、モスクワにパリ。いや、そういうことでもなくて、やっぱりこの店はこの横丁ですこし浮いている感じがする。どんなに外見がフランス風でも中にいる人間がこの店がなんなのかを語ってしまう。彼らの多くはどうやら賭博師のようだ。店は満席だった。ぼくが幸運にも最後の席にかけたようだ。
 すこしするとタキシード姿の給仕がやってきた。ピロシキはじゅうじゅうと本当に揚げたてで顔を近づけただけで熱気がただよい、かりかりの表面に冷めない油がじわじわ息吹いている。紅茶は急須に一杯で五ぺイカ、そして角砂糖がふたつついてきた。なかなかよい。揚げピロシキを食べるのは実は初めてである。
「いただきます」
 一応フォークとナイフもついてきたが、外の客のように手でいただく。
「あちち」
 あぐっとかぶりつくとじゅわっと熱い油がはじけた。一度皿に置く。食い意地が勝って冷めるが待ちきれずにフォークと手で半分に割ると、とろけるカッテージチーズの上をすべるように肉汁が流れた。一番美味いところをこぼしてしまったじゃないか。なんだかくやしい。猫舌をうらむ。
 今度こそとかぶりつくと、パリッとした歯ごたえと絶妙にまっちするちょうどよいパン生地のやわらかさで口の中が天国になる。ふるえる。舌が別れを惜しむのを感じながら噛みちぎった。
 ――のびる!チーズが伸びる!
 もちのようにのびるチーズが落ちてしまわないように急いで二口目。脳天を雷で撃たれたようだった。甘酸っぱいのだ!
 ジャムだ。コケモモのジャムが隠し味で入っている。ジャムだけのピロシキはサンクトペテルブルグでも食べたことはあったが、まさかの合わせ技とは。これはただのパン屋が出していいピロシキではない。もはや高級レストランの域である。なるほど、このパリ風の内観も納得してしまった。ポーランドに、タタールに。ところによって味も形もさまざまなピロシキがあると聞いてはいたが――思った以上に奥深いのだ、ピロシキという食い物は。
 しかし壁にはいたるところに”犬お断り””下士官出入り禁止”だの、おだやかじゃない札がさがっている。ここにも戦争のにおいはあるのだ。窓際の席では陸軍看護学校の校章を肩につけた男子学生と女の子が珈琲をすすり、朝のひとときを楽しんでいる。そのもうひとつ隣には新聞を広げたマントを羽織った老人。盗人や賭博師、そして庶民がごった煮のように一ヶ所にそれぞれの朝を過ごしそして夜を迎えるのだ。
 しあわせばかりではないが、なんだかそういうのが人間くさくていいなあと思っているとかしゃんかしゃんと金物がせわしなく鳴る音がした。そして食い物とはまったく相入れない白粉のにおい。顔を上げると、将校らしき若者がサーベルを腰にさし、その脇にはやたらにつばの広い帽子をかぶった貴婦人。
「ちっ満席か」
 将校は給仕にコートをあずけて舌打ちした。 
「ねえ、あなた」
 貴婦人が扇風機の羽みたいなつばを、くんっとあの窓際の恋人たちにむけた。将校がかつかつと足早に学生に近づいて立つと、気づいた彼は当然あわてて立ち上がった。
「お前はあの札が見えないのか?早く出ていきなさい」
 貴婦人は当たり前のように学生の立った椅子に腰をおろした。女の子は泣きそうな顔でコートを抱き、学生と将校を交互に見ている。この将校、きっと勘違いしている。きっと肩の校章のせいだろう。助け舟を出してやろうかと迷っていると、ぼくより先に声をかけたものがいた。
「もしもし、騎兵少尉どの」
 ざわっと店内の視線が一気に声に向く。声をかけたのは、新聞を広げていた老人だった。
「ドラゴミロフ将軍!」
 老人の正体に気づいた少尉は顔を青くして真竹のようにぴんっと背を伸ばして将軍の前に立った。貴婦は椅子にかけたまま足を組み替え、他人のふりをして窓の外をぼんやりみている。学生は女の子の肩を心配そうにさすり、彼女はその手をやさしくにぎった。
「出てゆくのは君たちのほうだよ。あの席に彼らを座らせたのはわたしだ。貴婦人にこれ以上恥を書かせぬ前に出ておゆき」
「……っ」
 少尉は学生をひとにらみするとくるりと向きを変え、足早に出口のほうに向かって行った。貴婦人はばつが悪そうにしたを向きながら置いて行かれまいと急いで後を追った。
「よかったね」
 女の子がぽそっと言った。
「ああ、」学生は言い、きりっと口を結んで将軍殿に敬礼をした。ドラゴミロフ将軍も同じように敬礼を返し、そして新聞に目を戻した。
 ——ふうん、なかなか粋なことをするものだ。
 紅茶のカップに口をつけながら彼が熱心に新聞を読むのながめているとぱっと彼が顔を上げた。さっきも入ってきた客が満席で帰されているのを見ていたし、と、思い切って話かけた。このあたりで顔の聞く男とつながって損はない——なんて考えよりも単純にこの男に興味が湧いたのだ。
「さっきのは見事ですな。私は留学生でアバズレーエフと言います。モスクワにきて二日目ですが気持ちのよいものを見せてもらいました。よかったら、ご一緒しても?」
「ああ、せっかく学びに来ていただいているのに、我が国のお恥ずかしいところをお見せしまして——」
「いやいや、学校で教わるよりもためになるものです。こういう喫茶店や普通の道端だったりとか。恥も知らずにいろんなことを聞き回ってます」
「たずねたくらいで鼻ははたかれんよ」彼は笑った。
「さて、今ごろさっきの少尉は貴婦人の機嫌をなおすことができたろうかなあ」
  新聞をたたんで置き、珈琲をくいっと飲んで彼は言った。
「まださっきのことを?」
「ああ、なんとなくな。私は陸軍大学で教授をしていてね。どうしても自分のしたことがどう他人に影響を与えるかとか、考えてしまうんだよな」
「ほう」
 威厳のある顔つきに似合わない繊細な心がしっとりとぼくにも響いた。
「さっきの若いののように、上位のものは下にえばりちらすもんだと勘違いしてるものが多いんだ。なに、彼らだけを咎めているわけじゃない。そうやって教え誰かがいるから、そうするんだ。それがね、嫌なんだよなあ」
 突然がたがたと客が一斉に帰りだしストライキでも始まるのかと驚いた。
「ああ、もう競馬の時間か」と彼は言った。さっきの恋人たちはとっくに店を出ていて、残ったのはたまたま立ち寄ったらしい頭にスカーフを巻いたマトリョーシカみたいなおばさんふたりだけだ。一気に空気がいれかわり、すっとした静けさに、湖面に浮かぶ小舟に乗っているようだった。
「敬意っていうのはお互いに表すものであって、下位のものから敬礼を受けたのなら将校はそれを返してしかりだ。教え、導くものが兵士よりも育ちの悪いことをわざわざさらけて規律を軽んじるとは、まずいだろう?そんなものが上に立っては軍がよくなるわけがない。国の未来は見えてるだろう。そうは、思わないかね?」
「ええ、ぼくもそう思います」 
 ぼくは言った。
 他の国やそこに暮らす人たちのこと、知れば知るほど好きになってしまう。
 ここでもやがて血が流れることになるのだろうか。ぼくはその時、どこでなにをしているのだろうか。生きて、いるのだろうか。その時ぼくがいちばん大切だと思うものは、今と違ってしまっているだろうか。
 諜報員、明石元二郎。肩書きはこういうとき役に立つ。するべきことを忘れずに済む。

「ここのサイカは干し葡萄入りでうまいんだ。留学生どのにひとつ土産にくれてやろう。おうい、サイカを四つくれないか?二つずつ別々にふくろにいれてくれ」
 ドラゴミロフはぼくが遠慮する間も無く給仕に頼んでいた。
「さて、私は軍にもどるが、君は?」
「私はもう少し散歩してから帰ります」
「それはいい。よく、見て行ってくれ。よいところも悪いところもあるが、これが今のモスクワだよ。なにも隠すことはない」
 サイカの袋をぼくにひとつ渡して言った。まだほんのりあたたかい。中を覗くと、
「安心しろ、その黒いのは干し葡萄だ。ごきぶりじゃあない」 
 彼は笑った。
「そんなにその話有名なんですね」
「モスクワっ子で知らないやつはいないさ。きのこと名乗ったからにはかごに入れってね。それを死ぬまでやり通した立派なひとさ。一度決めたら、最後までやり抜く。そういう意味のこの国のことわざだよ」
 教授——というよりも近所の面倒見のよいおじさんの顔でドラゴミロフは教えてくれた。フィリッポフさんはおいしさだけじゃなくて、なにか大切なものをこの店に残していったのだ。店がまえや時代が変わっても変わらないもの。そのかけらをここでいくつ拾ってゆくことができるだろう。こわれないように、持ち帰れるだろうか。

 干し葡萄の甘酸っぱさが噛むたびにやわらかに香るサイカ。このあたりのみんな、この味で育ったんだろうな。ふと、母と一緒に食べた天満宮の梅ヶ枝餅が思い浮かんだ。 


画像はこちらからお借りしてます。
https://tatyanaseverydayfood.com/meat-cheese-piroshki/

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