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その男、ヒュッテンブレンナー

金融業を営む貴族の家系に生まれ、オーストリアの継承問題から勃発した戦争に際して、女帝マリア・テレジアのもとにイギリスからの軍資金をもたらし、戦後のマリア・テレジア政下で貨幣の鋳造を任されて、その利益の3分の1の保有を許され、製糸工業と縫製工場を創設し、オーストリアにはじめてブラウアーポルトギーザーのワインをもたらし、マリア・テレジア通貨の長期かつ広範囲な流通による莫大な富も相まって、当時のもっとも裕福な人の一人に数えられたヨハン・フォン・フリース。その末息子であるモーリッツ・フォン・フリースによって「素晴らしいピアニストだ」と評価され、一流の先生で学ぶようにと当時65歳であったサリエリの元に送られたのが、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。

ヒュッテンブレンナーは1815年にウィーンに来て、サリエリから紹介されたのか、すぐにベートーヴェンと知り合いになり、楽譜の出版をしていたシュタイナーのところでヒュッテンブレンナーとベートーヴェンは親交を深めたという記録がある。ベートーヴェンはシュタイナーに借金をしていたが、シュタイナーがベートーヴェンの作品を出版した記録はない。翌1816年に「ベートーヴェン?ああ、知ってるよ。」と言ったか言わなかったか、ヒュッテンブレンナーは同じくサリエリのもとで作曲を学んでいた3歳年下のシューベルトとも出会ってすぐに友達になった。
ヒュッテンブレンナーはウィーンに来てすぐに自作を出版しており、作曲家としての社会的地位でいえばシューベルトの一歩先を歩いていた。そんな兄弟子が作曲した弦楽四重奏のテーマを使って、シューベルトはひとつの変奏曲を書いた。
その変奏曲の中には、ベートーヴェンの第7交響曲が登場するのだが、ベートーヴェンはその交響曲をヒュッテンブレンナーの恩人であるモーリッツ・フォン・フリースに捧げていた。
そののち、シュタイナーのもとで働いてから独立したばかりのディアベッリ出版社が自社のアピールにと「ディアベッリの主題」なるものを用意し、ベートーヴェンやチェルニー、若きフランツ・リストなどに変奏曲を依頼し、ヒュッテンブレンナーとシューベルトもその中の一人として変奏曲を書いた。それが縁となったのか、ディアベッリはシューベルトの『魔王』と『糸を紡ぐグレートヒェン』を出版し、ようやくシューベルトの作品が公式に世に出ることとなった。
その後、作曲家として成熟したシューベルトの3つの重要作『幻想ソナタ』『冬の旅』『白鳥の歌』を出版したのが、やはりシュタイナーのところで働き、その事業を譲り受けたハスリンガー社だ。

シューベルトとベートーヴェンを繋げた者が、サリエリではなくヒュッテンブレンナーだとされていること。「未完成交響曲」を含むシューベルト作品がヒュッテンブレンナーに預けられたこと。ベートーヴェンの死の床にいたのが、家政婦とヒュッテンブレンナーだけであり、ヒュッテンブレンナーが目の前の死体から髪の毛を少し切り取ってずっと隠し持っていたこと。
ヒュッテンブレンナーは、何かの形でウィーン楽派の最も重要な部分にかかわっていたのではないかという形跡がありながら、いまでは、長生きをしてまったくあてにならないシューベルトの伝記を書いた、古い友人としてしか知られていない。

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2022年9月13日(火) 20:00開演
「秋の変奏曲」
ピアノ:佐藤卓史


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