見出し画像

『勘』について 改めて考える ( 散文 )


小学校の時の 家庭訪問で 自宅を訪れた女教師に

「 洞察力が鋭い 」と言われたことがある
もう うん10年も遠い昔の事を 思い出したのは

タイトルにある 『 勘 』について
調べていたからだ

改めて 勘 とは何か?
と、問われれば

○○です、と はっきり答えられないと気づいた

日頃、そのように何気なく使ってしまっている言葉
その言葉の意味を きちんと答えられない事

勘に限らず きっと とんでもなく多い


もっと 自戒を込めて
学び直そうと思った


とりあえず、頭に浮かんだ 勘というものについて
考えている


洞察力云々については、

勘が鋭い人という事は、日常生活においては 観察力が鋭く、人や物事の
変化に目ざとく気がつく人、との記載を見つけたので 思い出した訳である


そう言われても、特に自身がそうであるとも認識してはいないが

誰かと知り合い、その人について 単純に好ましい感じるような
判断に自分は ある種の 勘というもので 見極めている


たとえば、このnoteで知り合う人についても、、、


膨大な記事やユーザーがいるこのnoteの中で
知り合える人は ほんの僅かだ


フォロワーさん、といっても
そのすべての方と言葉を交わせている訳でもない


自分はすべての物事には プライオリティが付き纏うものだと思っているので
必然的に 自分が関わり大切にすべき人物とは
こんな どうしようもない自分に コメントをくださった方へ
最初の興味を抱く事になる


コメントと言ったところで
それは 露呈された言葉としては かなり 少ない

そのコメントを通して その人がどんな人なのだろう?
と、興味のベクトルを馳せる時、
この記事のテーマである 『 勘 』に 連動されてゆくのだ


そういう流れで 知り得た方たちの中で
とある方について 書きたい


その方がくれたコメントは ご自身を謙遜しつつ
ボクの拙い記事を褒めてくれたものだった

単純に好意的なコメントを貰えば嬉しいのは 勿論だが
自分は その人が とても 凄い才能を持っていて かなり知性的な人に
違いないという、勘に導かれるような確信を抱いた


今 自分のプロフィールは
自己紹介を書くのはやめた、という とんでもないものであるが
以前のアカウントでは
ただの主婦、と書いていた

ただの主婦というのも
いい加減あやしい、とは 共に暮らしている彼の弁だが、、


その方のプロフィールも どこか 自分と共通していて
これというような肩書きなどは無かった


だが
何回かメッセージのやり取りを繰り返すうちに
その方のフェイスブックを知る事が叶い、noteでは一切プロフィールになど
その記載が無かったのに
東大卒だったという事が分かった

ああ、と思った
学歴がすべてとは まったく思ってはいないが
妙に腑に落ちたのである


自分の信じた 「 勘 」 のようなものへの
ある種の確信のようなもの、、、


自分はふてぶてしい性格なので
この人、と思った人へ遠慮なく懐いたり甘えたりしてしまうところがある

その方からも
かなり 目には見えないような波動というのか
生きていくうえでの お守りのようなものを頂く事ができた


図々しくてごめんなさい、
そう思う一方で それを手繰り寄せた 「 勘 」というものについて
もっと 詳しく調べたい、
そう思った次第なのである


己の人生を より善くより次元の高いものへと
少しでも 成長したい


自分に携わって下さる方へ恥ぬ生き方をしたい

だからと言って
急に自分の書くもののスタンスを変える、という事ではない


何故なら
ありのままの自分で知り合えた人たちなのだから



「 書くこと 」とは、しみじみ 物凄いものを孕んでいるのだ

人生を決める、といっても過言ではない


その中で交わす言葉の尊さ、文字の持つ魔性については
驚愕するばかりである


書いた文章が誰に読まれるかなんて
書いた時点では まったく分からないけれど、
もしかしたら、自分に必要な人には 不思議な力で届くのかも知れない

そう思えている


いつも 拙い記事ばかりですが

読んでくださりありがとうございます



** *





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?