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自尊心ゼロ、「子育ては自己犠牲」と思っていた私が「繊細っ子との心豊かな暮らし」を手に入れるまで


自己紹介

こんにちは。
カウンセラーのこのみです。
自己紹介をさせていただきます。
 
私に興味を持って頂けると嬉しいです😊

🩵今の私

私は40代の主婦、家族は4人です。
転勤族の夫と小6のムスメ・小3のムスコ(ふたりとも繊細っ子・HSC)と
4人で暮らしています。

現在はカウンセラーとしてHSC子育て中のママ、
学校苦手っ子のママのサポートをしています。
また、不妊経験を生かして不妊ピア・カウンセラーとしても
活動しています。

夫のカメラから見つけた1枚



今は繊細っ子との毎日を宝物と感じている私ですが、はじめからそんな気持ちで過ごしてきたわけではありません。
特にこの20年は失敗・挫折・苦悩、人生ってこんなに試練が続くものなの?どうして私ばっかり…と思うことばかりでした。
  
私の経験をお話することはとても勇気がいることで  
今までは自己開示ができなかったのですが、
今回は私の人生観や生い立ち、辛い経験、転機となったできごとなど
すべてをさらけ出していこうと思います。

子ども時代

🌹家族と学校

私の原家族は両親と弟・妹の5人家族。

きょうだいと年が離れていたことや、母親が不治の持病を抱えていたため
「私が家族を明るくしなくちゃ!」と必死で家族のバランスをとっていました。 

その気質は学校でも発揮され、教室を盛り上げたり、おとなしくてなかなか輪に入れない子に声をかけて二人で過ごしてみたり…常に周囲の「バランス」に気を配ってそこにいる人たちが居心地がいいようにするにはどうすればいいかを考えていたような子どもでした。
 

🌹中学時代~初めての「選択」


そんな私が中2で親の転勤による転校を経験し、初めて挫折を経験します。

仲間外れにされているわけでもなく、一緒にお昼を食べたり、休日に遊びに行く友だちもいるのに、どこかなじみきれない違和感がありました。

「この環境から抜け出したい!」

そう強く思った私は、高校選びで初めて自分の道を探しました。

当時インターネットなどはなく、冊子や口コミで情報を集め「ここに行きたい!」という高校を見つけました。
その高校の自分の学力よりも偏差値が高く、自宅からバス1本と電車3本を乗り継いで片道2時間近くかかることが分かりましたが、「どうしてもこの学校へ行きたい」という一心で合格を目指しました。

初めて自分の道を選んで努力した高校受験、結果は見事合格。
入学後は中学校の時のような違和感はなく、今でも付き合いのある一生の友だちができたのも高校時代でした。

🌹夢だった学校の先生にならなかった理由


実は私は小学生のころから学校の先生になりたいと思っていました。
大学では通常過程にプラスして教職課程を履修、教育実習にも行き教員免許を取得しました。

進路を選択する際にもう一度自分に向き合って学校の先生をいう職業を考えた時、私はその選択をしませんでした。

なぜかというと「登校拒否(当時は不登校ということばより登校拒否という言葉の方が主流でした)や学校が苦手な子の気持ちがわかってあげられない」と感じたからです。

学校の先生になりたいと思うくらいなので自分自身は基本的に学校が好き。
だけどそうじゃなさそうな子もいる。
私はそういった子たちに真に寄り添うことができないのではないかと考えたのです。
その結果、大学卒業後は一般の金融機関に就職をしました。

自尊心が崩壊するまで

🍀カウンセリングが必要だったタイミング①~会社員時代


金融機関に就職後は事務も営業も経験しました。

営業では商品やコミュニケーションを学んで社内トップクラスの成績を収めました。
お客様からも同僚からも信頼を得て、評価され、仕事のやりがいも感じていました。

しかしキャリアが積みあがっていけばいくほど、トイレにも行けないような激務が続き、心身の健康状態が崩れていきました。
朝起きたらなぜか涙が止まらない、会社のことを考えると気持ちが大きく落ち込む・・・

思えばこの時が私にカウンセリングが必要だった1回目のタイミングだったのです。
でも、当時はそんな自分の心の状態に向き合うことなく「まだ大丈夫!」と必死で日々をこなすことで精一杯。

自分をだましだまし仕事にまい進する日々でした。

🍀カウンセリングが必要だったタイミング②~不妊治療


そんな中、30歳になる少し前、結婚2年目の夫の遠方への転勤が決まりました。
私の会社はその土地に支社がなく退職して帯同することにしました。
 
専業主婦になって私が向き合うことになった問題、それは【妊活】です。

結婚して2年たつのにかすりもしない…仕事が忙しいことにかまけて「そのうちね」と後回しにしていましたが、ぽっかりと時間ができてこれからの人生を考えた時に「やっぱり子どもが欲しい」と不妊治療を始めることになります。

見知らぬ土地での不妊治療は苦労の連続でした。
毎月来る生理のたびに「不合格!」と烙印を押されているような気持ちになりました。
「今月こそは!」と期待し、落ち込む。
ジェットコースターのような感情に揺さぶられ、不安定になっていく自分を感じました。

また、再就職した仕事と不規則な通院をが余儀なくされる不妊治療を両立することがさらに大きなストレスとなりました。

それまでの学業や仕事は「努力した分だけ報われる」世界でしたが、不妊治療は違いました。
どこまでがんばればいいのかわからない、がんばっても子どもが授かる保証もない。

出口の見えない暗いトンネルの中を一人きりで歩いているような感覚でした。

何をしていても妊娠のことが頭にあり、友だちの妊娠・出産も心から喜べない自分のことがキライになりました。

このタイミングが私にカウンセリングが必要だった2回目のタイミング。
それでも不妊治療に多額のお金がかかっているのでそれ以上、目に見えない心のことにお金をつかうという考えにはなれませんでした。 

🍀カウンセリングが必要だったタイミング③~妊娠・出産


不妊治療を2年続け、3度目の体外受精で幸いにも妊娠しました。
しかし初期の12週のとき、自宅で大量出血し緊急搬送。
破水反応があり、そのまま切迫流産で入院となりました。

入院初期、主治医にこういわれました。
「いつ赤ちゃんがだめになってしまってもおかしくない。正直、正期産で出産することは難しい。」

綱渡りのような入院生活が1か月ほどすぎたころ、検査で「赤ちゃんに染色体異常の可能性がある」と言われました。
確定させるなら羊水検査が必要ということでした。

どうして次から次へと辛いことばかり起こるのだろう…

でも、こんな状態で必死におなかにしがみついてくれているのにリスクのある検査はできないし、結果がどうであっても選択は同じ。
そう思い、羊水検査は受けませんでした。
 
私が緊急入院したのは6月1日。
そして結果的に退院できたのは出産後の11月29日でした。
半年間、24時間の点滴をし続け、シャワーも浴びられず、ベット上の絶対安静。
危険な状態になると転院し、ハイリスク妊婦専用の集中治療室に入りトイレも禁止となり、カテーテルで排尿をする…そんな半年間でした。

私は毎朝ベッドの上で「赤ちゃんが今日もおなかで育ってくれますように」と祈る日々でした。

医療スタッフや親族など周囲が絶大なサポートしてくれたこと、何より驚く生命力でムスメは予定日よりひと月ほど早く無事に生まれました。

緊急搬送時は梅雨入り前でしたが、ムスメを抱いて車いすで退院した時はダウンコートを着ていました。
 
半年間ベッド上安静、筋力も体力も落ち切った状態で出産し、出血量も多かったのでその後も1か月は安静となりましたが、私は無事に赤ちゃんに会えたことで幸せいっぱいでした。

そして2人目も体外受精で授かりました。
リスクのある妊娠とわかっていたので周囲に反対されると思い、夫以外には誰にも言わずに治療を受けました。

覚悟はしていましたが妊娠21週でまたもや切迫早産の診断がおり、3か月半の入院。
前回と違い、2歳のムスメをおいての長期入院となりました。
面会から帰るときに「お母さんも一緒に帰ろう」と泣き叫ぶムスメの声をベッドの布団をかぶって泣きながら聞いていました。
 
祈るような毎日を送り、無事に36週になり一度退院。

あとは産むだけ。これですべての苦労が報われる。」と思っていました。

しかし、最後に最大のトラブルが待っていました。

予定日近くでムスコを出産、しかしその直後に5リットルを超える大量出血により生命の危機にさらされたのです。

出産後、分娩台で血圧が下がる中オペ室に運ばれるところで記憶は途切れ、目が覚めたのは2日後、集中治療室でした。

からだじゅうが痛くて動かせない。
もうろうとする意識の中でおそらく大変なことになったんだろうということだけはわかりました。

「赤ちゃんは?無事なの?」
「生きててよかった…」

気管挿管で痛みのある喉でしぼりだした言葉でした。

その後聞かされた出産後の経緯…私は二度の緊急手術を受け、自分の命と引き換えに子宮を失ったのでした。

夫はシングルファザーとなるかもしれない覚悟がよぎったそうです。

その後も手術の後遺症で様々な病気を抱えながら、二人育児が始まりました。

1人目の不妊治療から始まり、最後は三途の川を渡りかけた。

私はそんなに高望みをしたのだろうか?
みんな元気に二人三人と妊娠・出産しているのにどうして?
どうして私ばっかりこんな目に…。
 

でも育児は待ったなし。
実家も遠く、夫の仕事は忙しく、転勤による引越しを繰り返しながら
ワンオペ育児を必死でこなす毎日。
すでに体も心もボロボロなのに、自分の心にはふたをするしかありませんでした。

ここが私にカウンセリングは必要だった三度目のタイミング。
でもそんなことには気づこうともしませんでした。 

自尊心のピースをひとつずつ集める

🌙決定的な出来事~ムスメのメンタルダウン

✔️「子育ては自己犠牲」
✔️「奇跡のような子どもたちをちゃんと育てなければ。」
✔️「授からない人もいるのだから育児の悩みは贅沢。」
✔️「私は恵まれているのだから辛いと思ってはいけない。」


本気でそう思っていました。
 
辛い気持ちを押し込んだまま育児を続けていた私に最後の追い打ちが待っていました。
 
それはムスメのメンタルダウンです。
小学校二年生になったムスメは学校でのお友だちとのやりとりで深く傷ついたことをきっかけに大きくメンタルダウンしました。

寝ても覚めても苦しむ小さなムスメ。
私はムスメの苦しさと、親なのに子どもを救ってあげられない自分の苦しさを両方背負い、暗闇の中に落ちていきました。

学校にも行けなくなり、あらゆる形で感情をぶつけてくるムスメ。
こんなに小さな子がどうしてこんな思いをしなければならないのか。

誰か助けて

私は解決策を知りたくて混乱しながら手当たり次第に様々なところへアクセスしました。
 
そのうちのひとつが日本における「HSC」の第一人者・明橋大二先生との出会い、もうひとつが2人のカウンセラーさんとの出会いでした。
 
ムスメのメンタルダウンをきっかけに「HSC」という概念を知り、「うちの子はこれだったのか」と長年のモヤモヤの答えをもらったようなホッとした気持ちになったことを覚えています。

早くこの概念を知っていればもっとちがう関わりができたかもしれない・・・そう思うと悔しい気持ちでいっぱいになり、本や講座、また明橋先生に何度も直接会いに行き、ムスメのケースを相談させていただいたり、他の不登校の親御さんと先生のやりとりを目の前で見聞きさせていただくことでHSCや不登校に関する知識や捉え方を身に着けていきました。

日本でのHSC提唱の第一人者・明橋大二先生
明橋先生の著書のイラストを描かれているおおたともこ先生
先生の「子が宝なら母もまた宝」というメッセージが心に響きます

また、2人のカウンセラーさんとの出会いが私に大きな変化・進化を与えてくれました。
 
子どものメンタルダウンがきっかけでカウンセリングを受け始めたため、当然はじめは子どものことがテーマ。

子どもの状態や学校とのやりとりなどの話をしていました。

しかし、継続的にカウンセリングを続けていると私は自分自身を整えるためにカウンセリングを受けているという意識に変わってきたのです。

その変化は急激なものではなく、行ったり来たり緩やかで、でも確実なものでした。

実はその時すでに私はカウンセリングについて学び、カウンセラーを目指していたのですが、実際にクライアントとなって継続的にカウンセリングを受けるという経験はありませんでした。
 
子どものことをきっかけにカウンセリングを受け続けたことで、机上で学んでいたカウンセリングが実体験となりその力を確信することとなったのです。
 
身内や友達への相談とはちがう、自分の日常生活には登場しないカウンセラーに安心・安全な場で気持ちをアウトプットする、それだけでこんなに自分自身がすくわれて整っていくのだということを実感しました。
 

🌙小さなムスメからの決死のメッセージ

激務に追われて心身のバランスを崩した20代
壮絶な不妊治療~出産により、自尊感情が完全に失われたまま子育てしていた30代

この時にカウンセリングを受けていれば、もしかしたらムスメのメンタルダウンはこんなにつらいものにならなかったかもしれない。
ムスメは身を削って私が私と向き合うチャンスをくれたのかもしれません。

そのことで子どもの人生の主導権を子どもに返していく作業、自分の人生の主導権を自分で握りなおす作業ができるようになり、人間の持つ力を心から信じることができるようになりました。

ムスメも私も自分の人生をゆっくりしっかり歩いています
親子の安心感は循環します

子どもが安心して成長するためには、ママの安心感が必要不可欠、親子の安心感は循環していくことを身をもって経験しました。

このことに気づくまで9年もの時間がかかり、自己投資も150万円を超えています。

繊細っ子とのくらし、だからこそ感じられる心豊かな生活。
今は何気ない毎日が宝物だと感じています。 

🌙ここまで読んでくださったあなたへ

HSCは5人に1人、周囲とはちがった子育てをする覚悟が必要です。
 
だからこそ、ママの支えは絶対に必要なのです。
 
私の強みは

数多くの「不」の経験
自分の心や体への信頼感が底まで尽きた経験
小さな子どもが大きくメンタルダウンした経験
そこから現在の「すでに目の前にある幸せに気づける力」を身につけた経験


です。

当事者としてカウンセリングを通して目の前のママとそのお子さんの安心感の循環をサポートしていきたいと思っています。

1人で限界を感じているのならば勇気を出してつながってほしい。

子育ての期間は過ぎてしまえばあっという間です。
でも私たちの人生の大切な大切な時間です。

そんな尊い時間を幸せな気持ちで過ごしますか?
それとも一人きりで自己犠牲の育児を続けますか?

1日でも早く、「繊細っ子との心豊かなくらし」実現したい!

そんなあなたとつながっていきたいと私は思っています。

 あなたの暮らしが、人生が
より心豊かなものとなることを心から願っています🍀

 長くなりましたが最後までお読みいただきありがとうございました😊








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