見出し画像

「アートな」だけが写真ではない、ということについて

「民族誌写真」という言葉が気になっている。アジアをフィールドに長年活動する、ある写真家のことを調べている中でのことだ。京都を拠点に季刊誌「K」を出している西岡圭司さんから、初めてその言葉を聞いた。フィールドワークの中で撮影された、文字の民族誌と同様に民族を記録・叙述する意味合いを持つ写真、のことだ。

調べてみると、文化人類学者で国立民族学博物館館長を務めた梅棹忠夫さんが広めた言葉のようだった。梅棹さんは「民族学と写真」の中で、民族学にとって写真はとても重要な「記述の手段」だと言っている。どういうことかというと、言語や文字では「事実を細部にわたって記録し記述することは、しばしば困難」だからだという。

一枚の写真が、学術論文にも並ぶ意義を持つこともある、ということだろう。ただし、梅棹さんは、写真の弱点として、「画像以外の言語情報を一緒に記録できない」点をあげる。手書きスケッチは、この点で写真に勝るとも言う。とはいえこの点は、画像をとりまく技術の進歩によって、すでにかなり解消されているかも知れない。画像上に文字情報を重ねる手法は、すでにInstagramなどのSNSで、ごく一般的なものになった。
いずれにせよ、梅棹さんが言いたかったことは、民族誌写真には「正確な民族学的知識に基づく言語的解説が必要」という点だ。
そうした民族誌写真というあり方を長年実践してきた写真家、それが冒頭で示した人物だ。彼が、どうしてそうした手法にたどり着いたのか。その道筋を具体的に明らかにできないかと思っている。今年の課題のひとつに挙げておく。(ヘッダー写真は、2022年9月に初めて訪れた、大阪の国立民族学博物館)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?