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イスラム預言者の映画を撮った監督の命を奪った自爆テロ

2020年も、イスラーム映画祭が開催された。新型コロナウイルス感染拡大という事態の中で、主催者・藤本高之さんの心労はいかばかりのものだったろう。その決断と努力に敬意を評したい。

この映画祭のすばらしいところは、多くの上映作品と専門家によるトーク(ティーチ・イン)が組み合わされている点だ。作品の枠を超えて、作品の舞台になっている国、時代、社会にまで、思いがどんどん広がっていく。今回の映画祭でも、そのトークの中で気づかされたことはいろいろあった。特に今回は、ある上映作の映画監督の人生について、気づかされ、考えされられたことをか中心に書いてみたい。

今回の映画祭で鑑賞したのは2作品。ひとつは、イスラム教の預言者ムハンマドの後半生を、ムハンマドを映像や音声で一切登場させずに描いた「アル・リサーラ/ザ・メッセージ」。

もうひとつは、イスラム教徒とキリスト教徒が共存するレバノンの村を舞台にした「私たちはどこに行くの?」。

どちらの作品も、会場はほぼ満員の盛況だった。日本にも中東映画への強い関心を持つ人々が相当数いることが感じられた。

「アル・リサーラ/ザ・メッセージ」は、3時間半の超大作で、途中休憩をはさんでの上映。7世紀のアラビア半島で、アッラーは啓示を受けたムハンマドが、敵対勢力との戦いを繰り返しながら、信者を獲得しイスラム教を拡大させていく過程を描く、壮大なイスラム大河ドラマだった。

ハリウッドで製作された「ザ・メッセージ」という映画をキャストをアラブ人に入れ替えて作ったという作品。両作品ともに、監督はシリア人のムスタファ・アッカド監督。映画製作は1976年で、アッカド監督は2005年に死去した。シリア人ジャーナリスト、ナジーブ・エルカーシュさんが、作品上映後のトークでそのことを紹介して、そのことについて、改めて考えさせられたのだ。

その不運な死は、あまりにも皮肉というか示唆的だ。映画の筋の話とは少し外れるのだが、まったく無関係という訳ではないので紹介したい。アッカド監督は、2005年にヨルダンの首都アンマンの3ホテルで起きた同時自爆テロの犠牲者の1人だ。監督は、友人の結婚式に出るため、アンマン中心部のグランド・ハイアットホテルにいて巻き込まれた。

この自爆テロは、当時イラクとその周辺でテロを頻繁に実行していた「イラクのアルカーイダ」という、いわゆるイスラム過激派組織の犯行と見られている。

イスラム教草創期、正義と公正に基づいた社会改革を希求した預言者と信者たちを超大作にしたアッカド監督は、イスラム過激派によるテロに倒れた、というのは、あまりにも悲しく皮肉なことだ。

そのアッカド監督についてのナジーブ・エルカーシュさんの話は、とても興味深かった。「アル・リサーラ」に対し、イスラム世界内部から、そうした映画を製作することへの異論が出されたという話だ。

イスラーム教預言者についての映画だった「にもかかわらず」、というか、預言者の映画だった「ゆえ」なのか、イスラーム世界の中からは、映画への反対論が出た。映画には、預言者ムハンマドという人物は登場しない。ムハンマドからの目線とみられるアングルでカメラが回っている場面が一部あるものの。

イスラム教は、偶像崇拝を否定する宗教である。その開祖を「偶像」として映画で描くことも許されないという考え方なのだろう。アッカド監督の側も、ムハンマド本人だけでなく、娘婿アリーなどの重要人物も作品に登場させないなど、異論を示すかも知れない勢力に、かなり神経質に配慮をしたことをうかがわせる。

とりわけ反対したのは、映画の舞台であるメッカ 、メディナの2聖地があり、保守的な宗教観を持つサウジアラビアだったという。ナジーブさんによるとそのため撮影はモロッコで開始されることになったが、サウジが同じ王国のモロッコに圧力をかけて、撮影を阻止ししようとした。窮したアッカド監督は、サウジと対立するリビアの指導者カダフィ大佐に協力を頼む。カダフィは承諾し、映画はリビアで撮影され完成したのだという。

ナジーブさんによれば、アッカド監督は、「イスラム教やイスラム社会に対する西洋世界の偏見を取り除くため」に、いわば「イスラム世界の名誉を回復するため」に、「アル・リサーラ」を作った。だが、そうした思いは、イスラム世界の一部には届かなかったということなのだろうか。

ナジーブさんはこう語った。「アッカド監督は、社会問題を作品に入れなかった。その発想は、自分の文化の汚いところは出したくない、というものだった。自分たちのきれいなところを見てほしい、というのがアッカド監督の思いだった」

シリア・アレッポで生まれ育ったアッカド監督は、映画監督になろうとアメリカに渡り、南カリフォルニア大学で映画製作を学び修士号を取る。イスラムへの偏見と戦うためには、米国流の映画作りを本格的に学び、世界で勝負することが必要だと考えたのだろう。

米国で米国流の映画を学び、ハリウッドに乗り込んで、ついに世界に発信しうる映画を作ったアッカド監督。その監督の人生に終止符が打たれたのは、イスラム過激派による無差別の暴力だったというのは、あまりに皮肉なことだ。

アッカド監督が命を落としたアンマンのテロ事件は、ISの前身といわれる「イラクのアルカーイダ」による犯行と言われている。指導者のアブムサブ・ザルカーヴィは、2006年に米軍の攻撃で死亡するが、その思想はISに引き継がれていく。

アンマンのテロ事件で、自爆未遂犯とされヨルダン治安当局に拘束された者の中に、サジダ・リシャーウィという女性がいた。このサジダが10年後、再び登場する、2015年、イラクやシリアでISが勢力を拡大する中、ISがサジダという名前に言及する。

2015年1月、日本人後藤健二さんを人質に取ったISは、後藤さん解放の条件として、サジダの釈放を要求した。ヨルダン当局はこの要求を容れることはなく、後藤さんはISに殺害され、サジダもヨルダン政府により処刑された。

サジダの親族の中には、ザルカーウィの側近がいたと言われる。ISにとってサジダは、かなりの重要な人物人物だったのだろう。

映画「アル・リサーラ」自体から少し話がそれてしまったが、「イスラーム映画祭」というイベントは、映画作品そのものを考えるだけでなく、監督の人生、製作当時の社会情勢など、映画作品を取り巻いているさまざまなことを考えさせられるきっかけを与えてくれる。そうした意味で、とても意義があると思うのだ。

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