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「フリーランス搾取」、不穏な未来を描出した英国の巨匠の映画

ケン・ローチ監督の映画は、常に現代イギリス社会の「影」の部分に焦点を当て、それを怜悧なリアリズムで堅牢なプロットのドラマに仕立てる。ケン・ローチ作品の主人公は一貫して、外国移民、鉄道員、いじめを受ける少年など「社会的弱者」だ。

2016年のカンヌ国際映画祭で自身2度目のパルムドール(グランプリ)受賞作となった「わたしは、ダニエル・ブレイク」を最後に引退を表明。それを撤回してまで、ケン・ローチが描きたかったものは何だったのだろう。

新作「家族を想うとき」は、いま日本でも一般化しつつある、単発仕事をネット経由で受注する「ギグ・エコノミー」方式にも似た、「フランチャイズ」あるいは「個人事業主」として貨物宅配を行う「フリーランスドライバー」の男性。リッキーが主人公だ。

配達用の車は自分で買うか、借りる必要がある。報酬は、配達した荷物の個数による。病気になったら自己責任、会社の補償はない。いやむしろ、自分
が受け持つルート配達に穴をあけたからと言って、100ポンドの制裁金を取られる仕組みだ。

「がんばれば、がんばるだけ、稼ぎが増える」という宅配請負会社のボスの言葉に魅力を感じたリッキーは、仕事を始める。しかしすぐに、この仕組みが「休みなく働かかなければならないのに、一度、病気や家族トラブルを抱えたら、転がる石のように転落していく」という、正反対の、働く側からすると綱渡りのシステムであったことを悟る。

リッキーはマイホームを買ってそこで家族と暮らすことを夢みて、新しい仕事に飛び込む。しかし、非人間的な激務はむしろ、家庭の崩壊の導火線となってしまう。自分は何のために辛い長時間労働に耐えているのか、と絶望的な気持ちになる。

妻で、在宅ヘルパーとして働く妻、アビーのほうもそう変わらない。日々起きるアクシデントは、ヘルパーだけで解決するしかない。訪問の交通費は自腹。顧客に誠実であろうとするアビーの純粋な犠牲心が、この仕組みを支える。そうした労働者を働かせ尽くすシステムによって、アビーは何度も気持ちが萎える。そんなものが「自己責任」社会の到達点なのか、ローチの社会への問いかけが聞こえてくる。

私が初めてみたケン・ローチ作品は「ケス」だった。イギリスのさびれた炭鉱町で母と暮らす少年が、保護したハヤブサと心を通わせるわりとほんわかとしたタッチの話。フランスのデザイナー、アニエス・べーが絶賛したという作品らしく、確かに、うまく言えないが、映画の中に出てくるフィッシュ・アンド・チップスや街路樹の風景や、かなり唐突な感じの終わり方が、ファッショナブルな感じがしたのを覚えている。みた映画館は、東京の「早稲田松竹」だった。

私がみたのは恐らく、1997年2月25日から3月3日の回。早稲田松竹のホームページをみると、1997年から99年にかけて何度か上映していたようで、この前後、日本で一種のケン・ローチブームが起きていたようにもみえる。記憶はないのだが。

ちょっとネットで調べてみても、どの作品が「ブーム」の端緒だったのかがよく分からない。公開時期からすると、「レディバード・レディバード」のような気もする。1996年6月に日本公開された。酒好きで母親失格とみなされ、当局に子供を取り上げられた女性の物語。冒頭で主人公がイギリスのカラオケ店で絶叫するシーンが目と耳に今も残っている。

同年11月には東京・神保町の岩波ホールで「大地と自由」が公開された。これはスペイン内戦が舞台。現代のイギリスで死去した老人の遺品から遺族がスペイン内戦に参加していたことを知る、というシーンから始まり、回想として内戦を描いていく。イギリス共産党員だった主人公は、共和国派に加わり、ドイツやイタリアの支援を受けた右派フランコ派と戦う。共和国派内のトロツキストとスターリニストの内紛など、戦争の醜悪さが描かれる。

カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「麦の穂をゆらす風」と並び、ケン・ローチの近現代史ものの代表作だろう。

ケン・ローチ監督作品は、美化したストーリーを作るのではなく、今起きている(あるいはかつて起きた)、ドラマチックではないが、過酷な人間社会の現実だ。例として、いくつか作品を紹介したい。

2008年日本公開の「この自由な世界で」。「弱者が弱者を搾取する」という、なんともやりきれない現実を描いた。

ロンドンを舞台に外国人労働者の派遣業に乗り出すひとりの女性が主人公。シングルマザーで、複雑な年頃を迎えた息子の問題も抱える。自らが生活するために、ポーランドやウクライナなどから来る外国人労働者を「食い物」にする。まさに「搾取される者が搾取する構図」。多分、今や万国共通の構図だ。

ディテール描写に対する誠実さがすごい。たとえば、作品に登場するイラン人・マフムードの人物設定。出版業を営んでいた父が王制時代の1950年代に、石油の国有化を宣言した「モサッデク首相を支持した」かどで、逮捕されたほか、イラン革命後には、マフムード本人が、現イスラム革命政権から、「反体制の本を出版した」として自らも逮捕された、というもの。この、予備知識がないと、かなりわかりにくい設定には、イランの現イスラム革命体制だけが、言論の自由を抑圧しているわけではない、というメッセージだ。

イスラムに対する無自覚な批判を避けようとする、自覚的な人物設定という気がする。また、ケン・ローチ作品に通底するものだが、主人公アンジーの描き方からしても、善悪を簡単に決めつけない、ケン・ローチの、表現者として、非常に謙虚な態度がみてとれる。

2005年日本公開の「やさしくキスをして」。スコットランド・グラスゴーで出会った、アイルランド系女性ロシーン(カトリック・キリスト教徒)とパキスタン系男性カシム(イスラム教徒)の恋愛模様を描いた。映画のタイトルは、作中で、音楽教師であるロシーンの指導を受けて女生徒が歌う曲(「やさしいキス」/詩:ロバート・バーンズ)から、と見られる。

世界有数の多文化・多宗教社会であるイギリスで、文化的バックグランドが異なる男女二人が直面する困難を描いた。インド、パキスタン独立の混乱での苦難を経験し、スコットランドの安住の地を見つけたカシムの両親は、イスラム社会の伝統ともいえる家族(親類なども含めた)重視の立場を貫き、カシムと、パキスタン在住の親類の女性を結婚させようとする。夫と別居中のロシーンと恋に落ちたカシムは、家族とロシーンのはざまで苦闘する。

結末はハッピー・エンドで、これはあえて言うと、ケン・ローチらしくない。カシムの妹が、父の意に反して、グラスゴーから遠いエジンバラ大学に進学してジャーナリストになる意思を鮮明にする一方、カシムも、父を裏切ってもロシーンとの関係を貫徹する決意を暗示して、エンドロール。ケン・ローチ作品としては、やや陰影のない終わり方、という印象もあった。イギリスのイスラム教徒社会に共通していえる家族の紐帯の強さが、異文化社会の混交が進むに従って、変わっていかざるをえないんだ、ということをいいたかったのか、どうか。その辺は、わからない。

それにしても日本で今年、ケン・ローチ作品だけでなく、社会の弱者を取り上げたドキュメンタリータッチの作品の公開が相次いでいるのは、なぜだろう。私が主なフィールドしている中東の映画で恐縮だが、親にネグレクトされた12歳の子供を描いた「存在のない子供たち」(レバノンのナディーン・ラバキ監督作品)、11月から公開される、更生施設に収容されている少女たちへのインタビューで構成される「少女は夜明けに夢をみる」(イランのメヘルダード・オスコウイ監督)などだ。

日本で起きるさまざまな社会問題が、欧米で先行して起きているということはままある。ケン・ローチが「この自由な世界で」や「やさしくキスをして」でとりあげた定住移民への差別問題は、外国人材の受け入れを拡大する「改正出入国管理法」が施行された日本で今年、大きくクローズアップされた。

フリーランスという働き方が広がり、それと同時にフリーランスに対する「搾取」も顕在化した今年、ケン・ローチ監督の「家族を想うとき」は、まさに日本で生きる我々が、自分たちの問題として、しっかり受け止めるべき、いや、いやおうなしに受け止めさせられる作品と言えるだろう。

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