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文章に恋をする

学生時代に初めて村上春樹のエッセイを読んで、その文章に恋をしました。
とにかく彼の文章を読んでいるだけで気持ちがよく、小説を読んでは心地よくなり、エッセイを読んではその考え方に大いに影響されました。
例えば「本当の情報は新聞からではなく肌で感じるもの」とか、「とりあえずの豆腐の色っぽさ」とか、「どんなふうに書くかはどんなふうに生きるかとだいたい同じだ」とか。

当時は村上春樹がどんな顔をしてどんな声をしているのか、何歳なのかも知らずに「彼と結婚したい」と本気で考えて、その時点で読める彼の作品を読み漁りました。
その頃村上春樹はとっくに結婚していたのですが、それを知った時にはそこそこショックを受けました。

わたしにとって好ましい文章を書く人はとても魅力的で、言葉の選び方や表現の仕方、ちょっとした遊び心などから、ある程度の人柄が垣間見えるように感じます。
まさしく村上春樹が書いたように、「どんなふうに書くかはどんなふうに生きるかとだいたい同じ」で、「書いたもの」からは「生き様」が伝わってくるのです。
わたしの夫はよく、「字を見ればその人がわかる」とか、「車の運転の仕方で性格がわかる」とか言うのですが、文章も同じなんじゃないかなと思います。
こうやって「……ように感じます」「……じゃないかと思います」などと、断定を避けて文末を曖昧に濁すわたしの文章にも、自信のなさや小者感がしっかりと表れていますね。

さて、そんな「文章に恋をしがちなわたし」が、文章を創り出す人たちが集っているnoteを始めたから、さあ大変です。
面食いの人が芸能界やモデルの世界に入ったようなもの。
いろんな記事を読みながら、「この人、ナニモノ? すごく面白い!」とか、「なんて美しい文章を書く人なのでしょう」とか、「正直で心が開いていて素敵」とか、「あんな記事も書けてこんな記事も書けるなんて天才!」などと、もうあちこちで恋をして、そしてその文の巧みさに嫉妬する日々。
これまでSNSは一切やっていなかったので、この芋づる式に素晴らしい書き手が見つかっていく現象に少々驚いています。

ずっと書き手は男性だと思って読んでいたら、ある時女性だとわかってビックリしたこともありますが、性別が違ったからといって文章への恋が失せることはまったくありません。
文章の世界は、性別も年齢も場所も時間も超えて穏やかで優しい恋をもたらしてくれます。
noteの「スキ」とはよく言ったものです。

不思議なのは、実際に出会って恋をしてお付き合いした相手の書いた文章に、わたしは一度も恋をしたことがないということ。
むしろガッカリした経験もあるくらい。
まあでも、ガッカリしたお相手とは、当然と言えば当然ですがどんなに好きでもうまくいかないものですね。

今は、皆様SNSを通じてパートナーとなる人の文章を目にする機会があるのかもしれませんが、SNSなんかない時代に恋をしていた若き日のわたしは、会って話して電話することばかりに頼っておりました。
若い頃は見かけや会話に比重を置き過ぎて、あまりにも文章力を軽視していたのだなあ。
なんといっても、文章には「どう生きるか」が表れているんだから、見ない手はありません。
今頃気づいても遅いけれど、かといって当時の自分に「文章からその人の『どう生きるか』を読み取る力」が備わっていたとも思えないので、どっちにしても同じことですね。

ちなみに、村上春樹は「恋に落ちなくて」というエッセイで、こう書いています。

僕の好みの外見の女性は、まず100パーセント近く内面的には  というかつまり人間的には  僕の好みではないのである。だから最初は電光に打たれるが如く胸をかきたてられても、しばらく相手と話しているうちに「ま、いいや」という感じでしゅるしゅると終息してしまい、結局僕は恋に落ちることなく終わってしまう。こういう人生は不幸といえば不幸だし、平和といえば平和である。
もちろんもっと若い頃はそこまで気がまわらないから、相手の見かけだけに惹かれて報われぬ恋をしたこともないではない。

村上春樹著『村上朝日堂 はいほー!』より

なーんだ、村上春樹もわたしと同じなのか、と変なところで嬉しくなります。
見かけだけに惹かれる傾向は、年齢を重ねるごとに修正されていくのも納得です。
それにしても、若い頃にこのエッセイを読んだはずなのに、「自分もそうだ」とわかるのが何十年も後だなんて、ホント人生ってままならない。

さてさてそれでは、素敵な文章に今日も「スキ」をしに行くことにいたします。
もう恋は文章の世界だけでいいかな、と思う、noteを始めてちょうど半年経った朝です。

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