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海パン女子

小学校低学年まで、水泳の時間は女子も海パンでした。

同年代の友人にそのことを話したらすごく驚かれました。
小学校3年生までの女子の海水パンツ着用、かなり珍しかったようです。
40年ほど前の長野県のあの地域だけのルールだったのでしょうか?
たしか4年生から水着を着ることができて、胸の部分を隠せるいわゆるスクール水着を着る学年になると、なんだか大人になった気がしたものです。
4年生になると日焼けの跡がパンツの跡じゃなくて水着の跡になる。これは憧れでした。

しかも、プールは学校の敷地とは少し離れた場所にあって、教室で海パンに着替えて(更衣室、なかったんだろうか?)、バスタオルを羽織ってみんなで公道を歩いてプールまで移動するのです。
海パンにバスタオルを肩にかけた男女児童が、炎天下の横断歩道をゾロゾロと渡っていく光景は、今思うとたしかに珍しい。
さすがに現在ではちょっと考えられないですが、当時は何の疑問も感じませんでした。

わたしの通っていた小学校は、町はずれの片田舎にあった小さな木造校舎で、1学年1クラスのみ、しかもクラスの生徒数が20人に満たない学年もあるような分校で、さらに4年生までしか在籍していませんでした。
5、6年生になると街中のマンモス校の本校へ、単線のローカル線電車で通うのです(わたしが2年生時に独立して分校ではなくなりました)。

そんな小さな学校だったので、とにかく体育に力が入っていました。
プールも体育館も校庭も、少ない生徒で使い放題だったし、体を動かす指導に熱心な先生たちが多かったのです。
夏は体育の授業はなぜか2時間続きになったりして、モーレツに授業中に泳いだうえに、放課後には「特訓」があり、昼間の授業で使って湿ったままの水着をまた着て(これが非常に気持ちが悪い)、夕方もみっちり泳ぎました。
当時午前中は授業のあった土曜日の午後もお弁当持参で居残り、「特訓」を受けました。
「特訓」は全生徒が参加したわけではないけれど、タイムを測ったり、長距離を延々と泳いだり、先生が構えた竹刀に足が当たらないようにより遠くへ飛ぶ飛び込み練習をしたり、小学校なのにまさに「部活」でした。
夏休みもほぼ毎日「特訓」はあったから、かなりの体育会系だった気がします。

その成果もあって、小さな田舎の学校ではあったけれど、5つの小学校が集結する町内水泳大会はわたしの通っていた小学校の選手が上位を総なめ状態。
わたしは表彰台に上がれば万々歳という実力でしたが、2歳上の姉は毎年優勝していて、6年生時には驚愕の大幅更新大会新記録を出したり、開催校の代表として堂々たる挨拶をしたりして大活躍でした。
やせっぽちだった妹のわたしはプールサイドで、体格も声通りも良い姉の姿を眩しく誇らしく眺めたものです。

小学校の夏休みの思い出というと「特訓」がほとんどを占めていて、どこかへ遊びに行った記憶はありません。
「特訓を休んで海水浴へ」なんて選択肢は提示されなかったし、自分でも提案しませんでした。
なぜなら「海水浴をするとタイムが落ちる」という謎の言い伝えがあり、少しでも記録を伸ばしたい子供たちはひたすらプールで泳ぐのです。
海なし県だから海に行くのはハードルも高く、「あの子、海水浴行ったんだって」という噂が流れると、「あ~タイム落ちちゃうね!」という憐憫の思いとともに、「いいなあ、海水浴……」という羨望の眼差しを向けていました。

その後文化系になびくわたしの人生で、バリバリの体育会体験をした小学校時代。
今でも50分間休まず2キロ泳げる体力と自信がついたのは「特訓」の賜物だけれど、「競争」が苦手になった原因でもある気もします。
競い合うことで成長もするけれど、疲弊もするんだろうな。
誰とも競わず自主的に泳ぐ大人になってからのプール通いは、とても楽しいです。
ただ、いまだに思いっきり飛び込みがしたくてたまらなくなります(市営プールは飛び込み禁止)。これは「特訓」の賜物なのか弊害なのか。

とにかくそういうわけで、わたしは海パンを一定期間履いたことがある女子なのです。
おそらくもう一生履かないと思います。

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